マリー・キュリーの2人の子ども。ノーベル賞に囲まれた家族

 

「キュリー夫人」として有名なマリー・キュリー

女性初のノーベル賞受賞者であり、生涯で2度のノーベル賞を受賞した優秀な学者でした。

マリー・キュリーは結婚して2人の娘がいました。マリー・キュリーは夫ピエールとどのように出会い結婚したのでしょうか。また、マリーとピエールの娘2人はどのように成長したのかについてもご紹介します。

 

マリー・キュリーの結婚経緯

マリーが、のちの夫ピエール・キュリーに出会ったのは27歳の時です。

ポーランド生まれのマリーが、26歳でフランスのソルボンヌ大学で物理学学士を取得した翌年のことでした。

学士取得後、マリーはフランス工業振興協会から受託した鋼鉄の研究を行います。鋼鉄の磁気的性質を研究するための場所がなかったため、知人を頼ったところ、フランス人科学者のピエール・キュリーを紹介されます。それが、後に夫となるピエールとの出会いでした。

マリーと出会った時、ピエール・キュリーは35歳で、パリ市立工業物理化学高等専門大学の教職に就いていました。ピエールは電荷や磁気の研究で成果を挙げており、フランス国内ではまだ無名でしたが、国外では「天才」と目されていた有望な科学者でした。

マリーは、ピエールと科学や社会のことを語り合い、ピエールのことを

「長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気を湛えていた」という印象を持ちました。

二人は共感し合い、惹かれました。

ピエールが書いた論文をマリーに披露したり、マリーはピエールを下宿先の屋根裏部屋に招待したりと二人の距離は縮まりました。

マリーは物理に続き、数学の学士号を取得。学士取得後は、夏季休暇を利用していったんワルシャワへ帰省します。もともとポーランドで働くつもりだったマリーは、ポーランド最古の大学・ヤギェウォ大学を希望しますが就職は叶いませんでした。その間、ピエールはマリーに何度も求婚の手紙を送り、10月にマリーはフランスへ戻りました。

ピエールは一緒にポーランドへ行ってもいいと申し出るほど熱心にマリーに求愛します。マリーは、フランスへ戻ってから9か月後の1895年7月、ついにピエールのプロポーズを受諾しました。

1895年7月26日、マリーとピエールは指輪も宴もない質素な結婚式を挙げました。ポーランドからはマリーの父と姉が駆け付けて参列しました。新婚旅行は、祝い金で買った自転車に乗って、フランスの田園地帯を回るというものでした。

 

娘2人の誕生とピエールの死

結婚の2年後には長女のイレーヌが生まれました。周囲の助けを借りながら育児と家事をこなし、同時にマリーは博士号の取得を目指しました。

研究対象として、ウラン塩が放射する光線に着目しました。マリーとピエールはウラン化合物の研究から「ポロニウム」「ラジウム」を発見します。1903年、マリー36歳の時に、「放射性物質の研究」で物理学博士号を取得。

そして、ピエールと共同ノーベル物理学賞を受賞しました。

ノーベル物理学賞受賞の1年後、次女のエーヴが誕生します。ノーベル賞受賞前に、妊娠中だった第2子を流産していたため、次女誕生はとても喜ばしいものでした。また、夫ピエールは科学アカデミー会員に選ばれるなど、順調でした。

ところが、ピエールは次女誕生の2年後、1904年に馬車にひかれて死亡してしまいます。享年46歳でした。マリーはピエールの死の知らせに大変ショックを受け、しばらく沈黙し凍り付いてしまったそうです。

マリーはピエールの後任としてソルボンヌ大学の教授に就任。ピエールの実験室も受け継ぎ、再び研究にまい進し、1911年にはノーベル化学賞を受賞します。

 

学者の長女イレーヌと芸術家の次女エーヴ

マリーの子ども、長女イレーヌと次女エーヴはどのように成長したのか、以下ご紹介します。

長女イレーヌ

イレーヌ誕生時、両親のマリーとピエールは、昼は放射性元素の研究に没頭していました。夜になるとマリーとピエールはイレーヌにつきっきりになり、マリーはイレーヌの成長日記をつけていました。両親とも忙しかったので、医師である祖父のウジェーヌと過ごすことが多かったようです。

マリーとピエールがノーベル物理学賞ととったとき、イレーヌは6歳。家には取材陣が押し寄せ、イレーヌも取材対象になることがありました。

8歳の時、父が馬車の事故で死亡した時は、マリー同様に相当ショックを受けました。

イレーヌはパリの私立学校に通っていましたが、中等教育に不満を持っていたマリーの意向で中学には入りませんでした。

マリーが知り合いの学者たちと作った組合学校という授業に参加し、物理はマリー・キュリー、化学はジャン・ペラン、数学はポール・ランジュバンといった学者に教わりました。また、体育を重視していたマリーの考えで、水泳、自転車、乗馬、登山、スキーなどを体験していました。

組合学校に2年ほど通ったあと、セヴィーニ学院で学びます。数学と物理が特に優秀で、他の同級生に教えることを許されていた程でした。

1914年に第一次世界大戦がはじまると、マリーは負傷者の手当のために放射線治療車で各地を回りました。17歳のイレーヌもマリーに同行し、やがて1人でⅩ線検査を任されるようになります。

1918年に第一次世界大戦が終わると、イレーヌはマリーの研究所で助手となります。イレーヌの数学、物理の知識は際立っており、落ち着いた態度と母マリーの影響もあることで同僚から“女王”と呼ばれたりしました。

1925年にイレーヌはソルボンヌ大学で学位を取得。そして、マリーの研究所で弟子として雇われていたフレデリック・ジョリオと親密になります。二人は1926年に結婚しました。

翌年、長女のエレーヌ(マリーの孫)が誕生します。

結婚後、イレーヌとジョリオ夫妻は共同で研究を続けます。1934年に2人ははじめて人工的に放射能を作り出すことに成功。この功績により、イレーヌとジョリオは1935年に共同ノーベル化学賞を受賞しました。

その後も研究を続けたイレーヌですが、1955年頃から体調の悪化が著しくなり、急性白血病と診断されました。衰弱して1956年に58歳で亡くなり、国葬されました。

次女エーヴ

マリーの次女エーヴは幼い時からピアノを学び、1925年、大学卒業後はピアノコンサートを開いています。

エーヴはマリーが欧州各国を周るときに付き添うなど、マリーの生活面をサポートしました。マリーの晩年を支え、亡くなるときは枕元で看取りました。

マリーの死後、伝記を執筆し、1937年に「キュリー夫人」を出版。いろいろな国で翻訳され、映画にもなりました。

第二次世界大戦中に、フランスからイギリスに渡り、連合国や自由フランスの運動を行いました。このためヴィシー政権からフランス市民権をはく奪され、1942年にアメリカへ移住します。

1952年にNATO事務総長からスペシャルアドバイザーに任命されます。そしてヘンリー・リチャードソン・ラブイス・ジュニアと結婚します。

夫のライブスがユニセフ事務局長として働いていた1965年に、ユニセフがノーベル平和賞を受賞。エーヴは父、母、姉、夫がノーベル賞に関わるという人生でした。1972年にインタビューで「私は家族でただ一人ノーベル賞を受賞していないのよ」と語ったそうです。

2007年、アメリカのニューヨークで、102歳という高齢で亡くなりました。

 

きょうのまとめ

ノーベル賞受賞者、マリー・キュリーの2人の娘たちの人生を見てきました。

まとめると以下のようになります。

① マリーは夫ピエールと研究に励みながら、2人の娘をもうけた

② マリーの長女イレーヌは物理と数学に秀でており、夫ジョリオと共同研究し、ノーベル化学賞を受賞した

③ マリーの次女エーヴはピアニストとして活躍。マリーの伝記「キュリー夫人」を執筆し、夫のライブスが事務局長だった頃のユニセフがノーベル平和賞を受賞

マリー・キュリーの長女のイレーヌはノーベル化学賞を受賞。次女エーヴは音楽、執筆で活躍し、国際機関で働いています。長女はマリーの研究を助け、次女はマリーの生活面を支えました。

自分自身も2度のノーベル賞という栄誉に輝いているマリー・キュリー。さらに2人の素晴らしい娘に恵まれたマリーは幸せ者ですね。

 










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