「孟子以降の人物としては、張良と諸葛亮(孔明)がいるのみである」
とは朱子学の創始者・朱熹の
張良、諸葛亮の2人に対する評価です。
ここでは、仕えた主君や置かれた立場から2人を見比べようと思います。
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諸葛亮が憧れた張良
秦に滅ぼされた韓の貴族・張良は遅れて漢軍に合流し、軍師として劉邦に仕えて、前漢の建国に導きます。
漢軍には挙兵前からの
・国士無双の大将軍韓信
といった功臣がいました。
張良は彼らと共に漢の三傑と称されています。
400年後、軍神と呼ばれる諸葛亮が現れ、前漢王朝の末裔・劉備を助けて蜀漢を建国します。
劉備には盟友関羽、張飛ら豪傑がいましたが、諸葛亮は劉備亡き後も、その子劉禅を丞相として補佐します。
そんな諸葛亮は張良に対して憧れを持っていたようです。
生い立ち、主君との出会い
2人の生い立ちと主君との出会いについて比べてみましょう。
張良は自らも挙兵した
張良は秦に滅ぼされた韓の宰相の家に生まれます。
そして秦の始皇帝を恨み暗殺を試み、失敗に終わります。
中国秦末期に陳勝と呉広が起こした、史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱に乗じて挙兵し、早い時期に劉邦軍と合流し、劉邦の幕下に入ります。
諸葛亮は三顧の礼で迎えられる
諸葛は前漢の役人を祖先に持ち、早生した父(諸葛珪)も従父(漢の諸葛豊)も役人でしたが、
目立った履歴はなく従父が民衆の反乱に会って殺されたのちは、
弟の諸葛僅と共に晴耕雨読の生活に入ります。
有名な逸話である三顧の礼(劉備が3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。)は、この時期に劉備が諸葛亮をリクルートする際のエピソードです。
それぞれの主君
両方とも任侠の親分タイプで、これといって取り柄はないが人に好かれ、
凄い人材が集まって神輿を担ぎました。
張良と劉邦
張良が補佐した劉邦は陳勝・呉広の乱の頃、田舎のゴロツキに過ぎませんでしたが
蕭何に後見されて挙兵します。
その蕭何のおかげで韓信を得、張良などにも助けられて天下をとります。
諸葛亮と劉備
諸葛亮が補佐した劉備は
黄巾の乱(中国後漢末期の西暦184年に教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で起こした農民反乱。目印として黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。)が勃発すると、
張飛や関羽らとともに義勇軍を結成します。
劉備の人柄を慕って有為の人が集まりますが、
中でも諸葛亮を得て天下三分の計
(後漢末、諸葛亮が蜀の劉備に進言した、国土を三分割して
・曹操
・孫権
・劉備
の三人で中国を支配する策。)
を採用して蜀漢を建国、三国志の英雄になります。
主な功績は?
2人の主な功績を比べてみましょう。
張良 軍師に徹する
張良は野戦の経験は一切なく、
「謀(はかりごと)を帷幕の中にめぐらし、千里の外に勝利を決した。」
とまさに軍師の役割に徹しました。
・栄耀の戦い後の楚軍追尾攻撃
・韓信の離反阻止
など、漢軍の浮沈にかかわる重要な提言をしています。
内政や兵站には蕭何、将軍としては韓信などの才能がひしめいたので、
張良は軍師に徹することができたのでしょう。
諸葛亮 軍師+
一方、劉備軍は関羽・張飛といった将軍はいても、蕭何に匹敵する政治、軍事の実務家はおらず、
諸葛亮には単に軍師以上の役割が求められたのではないでしょうか。
諸葛亮の功績は、
・赤壁の戦い
・夷陵の戦い
・益州南部の平定
・北伐(蜀漢の諸葛亮が自ら軍を率いて出兵した5度にわたる魏侵攻)
など実に多様です。
劉備亡き後、丞相として統一国家建設をめざしますが、北伐の途中の五丈原の戦いで病死します。
きょうのまとめ
諸葛亮孔明と張良を、彼らが置かれた立場から見てみました。
いかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると
① 軍神諸葛亮は張良に憧れがあった
② 張良は戦いの中で劉邦に、諸葛亮は三顧の礼で劉備に迎えられる
③ 張良が仕えた劉邦、諸葛亮が仕えた劉備は共に人徳があり、家臣に恵まれた
④ 張良は軍師に徹し前漢建国後は隠遁生活を、諸葛亮は軍師+軍事・政治の実務の役割をもつ
と言えるのではないでしょうか。
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