修学旅行などで、一度くらいは奈良の大仏を見に行ったことがあるでしょう。
大仏のある東大寺はかつて、源平の争乱によって焼失しています。
そこで立ち上がったのが、重源という僧でした。
重源とはどんな人物だったのか、今回は彼の生涯を簡単に紹介していきます。
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重源はどんな人?
- 出身地:京都
- 生年月日:1121年
- 死亡年月日:1206年6月4日(享年86歳)
- 入宋経験をもつ浄土宗の僧。焼失した東大寺再建の責任者を務めた。
重源 年表
西暦(年齢)
1121年(1歳)京都で生まれる。
1133年(13歳)醍醐寺で出家する。
1167年(47歳)入宋
1168年(48歳)帰国
1180年(60歳)東大寺大仏殿が焼失する。
1181年(61歳)東大寺大勧進職となる。
1182年(62歳)陳和卿に協力を要請する。
1185年(65歳)東大寺大仏開眼供養
1195年(75歳)大仏殿完成
1203年(83歳)東大寺総供養
1206年(86歳)奈良で入滅。
重源の生涯簡単まとめ
紀氏出身の重源は、京都で誕生しました。
13歳のとき、真言宗の醍醐寺で出家しています。
3回宋に渡る
その後は高野山など各地で修行を行い、法然のもとでは浄土宗を学びました。
さらに重源は3回、宋(現在の中国)に渡ったことでも知られています。
宋では仏教だけでなく最新の技術や文化も学び、1168年に栄西(坐禅で有名な、臨済宗を日本に伝えた僧)と一緒に帰国しました。
とはいえこの頃の重源は、正直無名の僧だったようです。
東大寺の再建に尽力
そんな重源を一躍有名にしたのは、東大寺の再建です。
東大寺は源平の争乱の際、平家側から焼き討ちに遭っていました(東大寺は戦国時代にも、松永久秀によって焼かれています(1567年))。
そこで重源は、東大寺の再建を朝廷に進言。
重源には宋にいた頃、お寺を造った経験がありました。
そこで後白河法皇は、61歳の重源を東大寺大勧進職に任命したのです。
東大寺大勧進職とは東大寺再建の最高責任者のことで、プロデューサーのような存在。
再建事業に必要な資金や材料の調達、そして技術者の登用などを行いました。
例えば、大仏の鋳造の責任者となった陳和卿は宋の技術者です。
入宋経験を持つ重源だからこそ、できた人事といえそうですね。
重源は大仏だけでなく大仏殿・戒壇院・南大門(大仏様という様式を採用したのも重源とされる。)なども再建しています。
そして重源83歳の時、東大寺総供養が行われました。
それから3年後、重源は東大寺の浄土堂で亡くなっています(享年86歳)。
重源にまつわるエピソードや伝説
それでは、重源にまつわるエピソードについて見ていきましょう。
後白河法皇のイチオシは法然だった?
1180年、平重衡の軍勢に火を点けられた東大寺。
その翌年、再建の話が持ち上がります。
そこで大勧進職に推挙されたのは、重源ではなく法然でした。
後白河法皇から内命まで下ったようですが、法然はこれを固く拒否。
その代わり、法然は重源を推薦したとされています(諸説あり)。
多賀大社が延命長寿で有名になった理由は重源にあり?
多賀大社は滋賀県にある、由緒正しい神社。
さらに重源ゆかりの地としても知られています。
重源が大勧進職に任命されたのは60歳を過ぎてから。
当時としては、かなりの高齢でしょう。
そこで重源は多賀大社へとこもって、延命長寿を祈りました。
すると一枚の柏の葉が落ち、見ると虫に食われた部分が「莚(むしろ)」と読めたとか。
これは寿命が二十年延びる、という意味に取れることから、重源は喜びました。
その後、見事に東大寺の再建を果たした重源。
それ以来、多賀大社には延命長寿のご利益があると、有名になったそうですよ。
<多賀大社>
きょうのまとめ
今回は重源の生涯について、簡単にご紹介しました。
重源とは?
① 重源は宋に渡り、最新の技術・文化を学んで帰って来た
② 東大寺再建の最高責任者として活躍した
③ 多賀大社で延命長寿を願い、見事に東大寺の再建を果たした
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