有馬新七の子孫は寺田屋事件のあとどうなった?

 

政権争いに揺れる幕末の京都において倒幕の志を掲げ、一大クーデターを企てた

有馬新七ありましんしち

関白、京都所司代の暗殺という過激な計画は、薩摩藩国父・島津久光の命で鎮圧され、新七は藩士との同士討ちという非業の死を遂げることとなりました。

自身もろとも、対立した藩士を刀で貫かせるという壮絶な逸話から、この寺田屋事件の代名詞ともされる新七。

子孫はそのあと、どのように過ごしていったのでしょう?
 

有馬新七の子孫

有馬新七ありましんしち

有馬新七
出典:Wikipedia

有馬新七には、妻・ていとのあいだに長男・勘太郎、長女・ケサというふたりの子がいました。

薩摩藩を揺るがす大事件を起こした新七の動向には、この家族も少なからぬ影響を受けていたようです。

寺田屋事件で苦難の道を行くこととなった一族

1862年、新七は島津久光に伴って上洛する際、妻子を離縁

長男の勘太郎には自身の自叙伝と、新七が懇意にしていた儒学者・梅田雲浜うんぴんの書が託されたという話です。

京都にて攘夷作戦を計画していたため、家族に害が及ばないようにと考えてのことでした。

叔父の坂木六郎はこの機に際して

「なにか企てるつもりではないか」

と、尋ねたといいます。

すると新七から返って来たのはこんな返事。

新七
大いにやるつもりでございます。公武合体のような隠遁姑息なやり方では、いつまで経っても王政復古の機会は訪れません。皮切りをする者が必要なのです。

たとえ事が成就しなくても、源頼政が宇治川で戦死して諸国の源氏を奮起させたように、我らの後を継ぐ者が現れれば本望です

計画が失敗し、志半ばで命を落とすことも覚悟のうえだったのですね。

その後、新七は京都にて、計画を阻止しに来た藩士らともみ合いになり落命。

島津久光の怒りは収まらず、新七の家族は親類預けの身となってしまいます。

親類預けは読んで字のごとく、親族の監視下で生活することを表しますが、これは通常、年齢の問題などで犯罪人を裁きにくい場合に下される処分でした。

要するに新七の家族は、今でいう少年院に入るのと同じような扱いになったわけですね。

久光は新七に対しても「鋸挽直磔のこぎりびきじかはりつけに処されてもいいぐらいだ」というほど怒っていたようです。

(※鋸挽直磔…磔にしてノコギリで挽くこと)

西郷隆盛らに目をかけられた勘太郎

1864年になると、新七の家族は薩摩藩の大赦により赦免となります。

この時期、島津久光が参預会議に参加し、薩摩藩の地位が高まってきていたことが関係しているのかもしれません。

その後、長男の勘太郎は戊辰戦争にも従軍。

明治期に海軍に入隊すると、西郷隆盛、川村義純らの推挙でアメリカに留学しました。

アメリカではメリーランド州アナポリスの海軍兵学校へ入学。

同期には東京専門学校(現・早稲田大学)の初代校長・南部英麿がいます。

晩年に離縁したものの、南部は一時、大隈重信の養嗣子となっていた人でもあります。

このようにエリートの一角に混じり、海軍軍人として全幅の期待を寄せられていた勘太郎ですが、帰国後の1877年、27歳にして病没

子どもがいなかったため、新七の父・四郎兵衛の生家である坂木家から養子をとる形で有馬家は継がれていきました。

ちなみに長女のケサは逸見宗介という人物に嫁ぎ、長男が海軍に出仕したようです。
 

新七への後世の評価

このように、俗として討たれ、直系の子孫も途絶えてしまった新七ですが、後世ではその評価も改められています。

寺田屋事件で亡くなった薩摩藩士9名は伏見区の大黒寺に埋葬されましたが、当時はちゃんとした墓碑も建てられませんでした。

そのため西郷隆盛はこの2年後、私財で「寺田屋殉難九烈士之墓」という墓碑を建立。

明治期に入り、反乱を起こした士族を見捨てなかった西郷の温厚な人となりが、こんなところにも表れていました。

このほか、新七の墓は故郷の日置市にも建てられています。

そして死後約30年経った1891年、明治政府から従四位の位階が送られ、ようやく維新志士のひとりとして名を連ねることに。

「あとを継ぐ者が現れればそれで本望」

と言った新七の望みも、ようやく報われたといえるでしょう。
 

きょうのまとめ

倒幕の志を胸に、我が身を捨てる覚悟で京都へと向かった有馬新七。

その子息は西郷隆盛のような同志に厚遇され、新七自身の評価も見直されていきました。

最後に今回のまとめ。

① 寺田屋事件の直前、有馬新七は妻子に害が及ばないよう離縁している。しかし結局は家族も罪に問われ、親族預かりの身となった。

② 長男の勘太郎は、西郷隆盛らに目をかけられ、アメリカの海軍兵学校へ留学。しかし帰国してすぐに病没してしまう。

③ 新七の罪は年を追って許され、正式に墓碑も建立された。明治期には政府から維新志士のひとりとして認められている。

新七の企ては当時としては、時期尚早と捉えられてしまいました。

しかし、これだけ称えられていることを見ると、その行動に心打たれた者もやはり少なくなかったのですね。

 
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