平安末期から鎌倉初期にかけて生きた僧侶
阿野全成。
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の弟で、幕府の成立とともに権勢を握った御家人でもあります。
2022年の大河ドラマ『鎌倉の13人』では、新納慎也さんに配役が決定。
放送に先駆けて、しっかりおさらいしておきたいところです。
でも…
頼朝の弟というだけで、活躍したという話はあまり聞いたことがないですよね?
実は頼朝没後の後継者問題に大きく絡んでいたり…。
阿野全成とは、いったいどんな人物だったのでしょう?
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阿野全成はどんな人?
- 出身地:京都
- 生年月日:1153年
- 死亡年月日:1203年8月1日(享年51歳)
- 平安時代末期、京都・醍醐寺の悪禅師と呼ばれた僧侶。源平合戦で兄・源頼朝の助けとなり、その後は御家人として駿河国阿野荘を治めた。
阿野全成 年表
西暦(年齢)
1153年(1歳)源氏の棟梁・源義朝の七男として生まれる。
1159年(7歳)平治の乱で父義朝が戦死。京都・醍醐寺へ出家する。
1180年(28歳)兄頼朝の平氏討伐に従い東国へ。頼朝と再会後、鎌倉幕府の有力御家人となり、駿河国阿野荘を領有する。
1203年(51歳)頼朝の次男・実朝を擁立し、二代将軍・頼家と対立。捕縛され、常陸国配流ののち誅殺される。
阿野全成の生涯
以下より、阿野全成の生涯にまつわるエピソードを辿ります!
幼少期
1153年、阿野全成は源氏の棟梁・源義朝の七男として生まれました。
母は絶世の美女といわれた側室・常盤御前で、弟の義経と同じです。
義経の幼名が牛若丸だったことは有名な話。
これに対して全成は今若丸と呼ばれていました。
ふたりは歳も近いため、兄弟仲が気になるところですが、これに関してはあまり記録も残っていません。
というのも全成が7歳のころ、父義朝は平治の乱で平家と対立し、敗死。
父親を失った全成は京都の醍醐寺へ出家することとなり、義経と一緒に育ったわけではないのです。
醍醐の悪禅師
今若丸は、僧となったことを契機に全成へと改名。
約20年間を醍醐寺で過ごすうち、人々からこう呼ばれるようになっていきます。
こう聞くと、あまりいい噂がないお坊さんだったのかな?と思わされますが、なにか悪さをしていたわけではなさそう。
平安時代、地方に起こった豪族を”悪党”と呼んだように、この時代の悪という言葉は、必ずしも悪い要素を表す言葉ではないのです。
荒くれ者だったとされている全成は、きっとその豪快な立ち居振る舞いから悪禅師と呼ばれるようになったのでしょう。
型にハマらないお坊さんという感じでカッコイイですよね。
頼朝の平氏討伐にいち早く駆け付けた全成
長らく僧侶として暮らしていた全成でしたが、1180年に転機が訪れます。
後白河天皇の第三皇子・以仁王が出した平氏討伐の令旨により、兄・頼朝が挙兵することとなったのです。
全成はこのことを知るやいなや、修行を装って関東へ急ぎます。
戦況は石橋山の戦いで源氏側が敗走しており、芳しくありませんでした。
しかし全成は佐々木定綱らとともに、平家側の武将・渋谷国重によって匿われることに。
実のところ渋谷は平治の乱では源氏の武将として従軍した人物。
今回も孫の佐々木らが源氏側についているという事情をもっていました。
「自分は平家の武将として参戦するが、孫たちが旧恩を大事にし、源氏に従うことを止める筋合いはない」
そんな考えの人だったのです。
こののち全成は、下総国鷺沼(現・千葉県習志野市)にて頼朝と再会。
頼朝は兄弟で誰よりも早く駆け付けた全成に涙し、武蔵国の長尾寺(現・川崎市妙楽寺)、駿河国阿野荘を領地として与えました。
全成の阿野という苗字は、このときに賜った領地にちなんで付けられたものです。
こうして全成は鎌倉幕府の有力御家人となりますが、頼朝の在職中は特に目立った活躍もありませんでした。
そう、頼朝が亡くなったあとにこそ、波乱が待ち受けていたのです。
二代将軍・頼家との対立
1199年に源頼朝が没すると、その嫡男頼家が二代将軍に就任することとなりました。
頼家は当時18歳と若かったこともあり、幕府では有力御家人による「13人の合議制」が敷かれることに。
こうして台頭した有力御家人が北条氏と比企氏でした。
両者は権勢を争って対立。
比企氏は頼家とつながりの深い一族だったため、北条氏はその弟・実朝を擁立する形で対抗しようとします。
実はこの政争に全成も巻き込まれることとなるのです。
というのも、全成の妻・阿波局は、頼朝の正室・北条政子の妹。
その縁から実朝の乳母となり、全成はその養育係を務めていました。
つまり実朝はふたりからすれば実の子にも等しい存在。
このため、全成は北条氏と手を結び、実朝を将軍にするべく動いていくのです。
手始めというべきか、阿波局は御家人・結城朝光をそそのかし、有力御家人のひとりである梶原景時を追放。
梶原一族を滅ぼすまでにいたっています。
これを機に比企氏と北条氏の対立は激化し、1203年には、頼家から謀反人とされた全成が捕縛されてしまうのです。
ちなみにこのとき捕縛を命じられたのが、甲斐武田氏の五代目・武田信光だったという話。
武田家がこの時代から幕府に重用されていたというのは、戦国ファンとしても興味深いですね!
その後、全成は常陸国(現・茨城県)へ配流されたのち、頼家が差し向けた八田知家によって誅殺されることに。
こうして失意のうちに、51年の生涯を終えることとなりました。
このとき頼家は阿波局も引き渡すように命じたといいますが、北条政子が味方につき、事なきを得たようです。
嫡男時元の死とともに途絶えた源氏の血筋
全成が亡くなった翌年、二代将軍・頼家は北条氏によって暗殺され、実朝が三代将軍に就任。
しかし1219年には、この実朝も頼家の次男・公暁により暗殺されてしまいます。
このとき暗に公暁をそそのかしたのは北条義時だという説もあったり…。
北条氏は最初から実朝に実権を握らせるつもりはなく、幕府を乗っ取るつもりだったのかもしれません。
そして、実朝が没したことを知って動いたのが、全成の嫡男・時元です。
数少ない源氏の血族である時元は、次期将軍となるため、北条氏を討つべく挙兵。
しかし返り討ちにあってしまい、源氏の天下はわずか三代で潰えることになりました。
ここから、将軍は公家から迎えられたお飾りの存在となり、執権・北条氏の時代が始まるのです。
ちなみに全成はこの時元とともに、静岡県沼津市の大泉寺にて祀られています。
きょうのまとめ
日本史を学ぶうえでは、あまり注目されない阿野全成。
しかし、鎌倉幕府成立という激動の時期に生きた人物だけあり、生涯を辿ってみると興味深い逸話がいくつも出てきますね。
最後に今回のまとめです。
① 阿野全成は、父・源義朝の戦死に伴い、京都の醍醐寺へ出家。約20年をその地で過ごした。荒くれ者だったことから、「醍醐の悪禅師」と呼ばれる。
② 源平合戦で兄・頼朝の挙兵を知ると、寺を抜け出していち早く駆け付けた。その動向に感動した頼朝によって、駿河国阿野荘が下賜された。
③ 有力御家人の北条氏と結び、頼朝の次男・実朝を擁立。二代将軍頼家と対立し、謀反人として誅殺された。
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