全員切腹処分となったものの、吉良邸討ち入りを果たし吉良の首を取った赤穂浪士たちは、大衆に絶賛されました。
では、元赤穂藩士のうち討ち入りに参加せず、生き残りとなったのはどういった人たちでしょう?
彼らの決断理由はさまざまです。
全てではありませんが、ここで幾人かのケースを見ていきましょう。
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赤穂浪士は四十七士?それとも四十六士?
討ち入り後の赤穂浪士たちは、江戸にある4つの藩邸に分れて預けられ、その藩邸で切腹しています。
その内訳は、熊本藩邸に17名、岡崎藩邸に9名、松山藩邸に10名、そして長府藩邸に10名です。
合計すると、17+9+10+10=46。
あれ?
46では1名足りませんね。
実は、討ち入りメンバーでありながら、その後行方不明になった者が1人いるのです。
その人物は、寺坂吉右衛門。
もともと足軽の身分だった寺坂は、討ち入りの頭数に入っていませんでしたが、彼の熱意にほだされた大石内蔵助(良雄)が仲間に加えたと言われています。
討ち入り時には裏門隊に所属していたのですが、討ち入り後に浪士たちが主君の眠る泉岳寺の墓前へ報告に向かった時には、すでに寺坂の姿はありません。
それについては、
・足軽の者に頼ってまで討ち入りしたと言われては武士の面目が立たないので逃亡させられた
・大石らが足軽という低い身分にかかわらず参加した彼を生かしてやりたかった
などの理由が挙げられています。
その後吉右衛門は、もともとの主人の赤穂藩士・吉田忠左衛門の遺族に仕え、忠左衛門の妻が亡くなってからは、江戸麻布の曹渓寺の寺男となって83歳で亡くなりました。
討ち入りメンバーから脱落した人
ワケがあって討ち入りせずに生きた人たちの中で、
討ち入りメンバーから脱落した人たちです
高田郡兵衛(たかだぐんべえ)
浅野家が断絶となったときに城での籠城を主張し、城を明け渡してからは、仇討ちを強硬に主張した人物です。
その後伯父である旗本からの養子の話を
「存じ寄りある(思うところがある)」
と言って断ると
「それは仇討ちのことだろう。養子に来れば黙っているが、そうでなければ上の者に訴え出る」
と脅されました。
そのため郡兵衛は討ち入り計画を口外しないことを条件に養子を受け入れたのです。
しかし、同志たちは討ち入り急進派の中心だった郡兵衛の脱落に激怒。
討ち入り後に泉岳寺に集まった浪士一行の元に、祝いの酒を持って現われた郡兵衛が、罵声を浴びて追い返されたとの逸話も残ります。
しかも、赤穂浪士たちが英雄視される中、郡兵衛の評価は下がり、養子先からも追放されたようです。
その後の彼の行方はわかっておらず、浪士たちの切腹処分後に自害したとも言われます。
小山田庄左衛門(おやまだしょうざえもん)
討ち入りメンバーに早くから加わっていましたが、酒が原因で金に困っており、同志から金5両と小袖を盗んで逃亡。
その後の消息は不明です。
討ち入り後に事実を知った彼の父が、息子の行為を恥として3日後に切腹しています。
田中貞四郎(たなかさだしろう)
浅野長矩の遺骸を引き取り埋葬した人物です。
討ち入りを強硬に主張する急進派でしたが、酒と女に溺れて身を持ち崩し、梅毒で顔が変わり果てるほど堕落。
自分の命が惜しくなったのか、討ち入りの約1ヶ月前に、書状で大石内蔵助に脱盟する旨を伝えています。
その後の消息は不明。
討ち入りからの脱盟理由が不明な者
密命などの理由があった可能性がありますが、現在のところ脱盟理由が不明とされる者たちです。
毛利小平太(もうりこへいた)
討ち入り前の吉良邸の探索などで活躍したにもかかわらず、討ち入り3日前に脱盟し、最後の脱盟者と言われます。
瀬尾孫左衛門(せおまござえもん)
大石内蔵助からの信頼も厚い家臣でした。
足軽の矢野伊助と共に、討ち入りに使用する武器を守っていたのですが、討ち入り2日前に矢野と共に逃亡しています。
討ち入りよりもお家再興に賭けていた人たち
もともと大石内蔵助は、赤穂浅野家の再興を願っていました。
しかし、主君の弟であり養子になった浅野大学が広島藩の浅野家に引き取られることになって再興は望めなくなりました。
・進藤源四郎(足軽頭400石。大石内蔵助の親戚)
・小山源五左衛門(足軽頭300石。大石内蔵助の親戚)
・岡本次郎左衛門(大坂留守居役300石。大石内蔵助の親戚)
・多川九左衛門(持筒頭400石。赤穂藩重臣)
これらの人々に代表される、大石内蔵助の親戚や、高禄だった者たちは、京で行われた「円山会議」で仲間の方針が仇討ちへと変わると、それに反対して脱盟していきました。
討ち入りに参加しなかったら「悪」なのか?
赤穂藩が取りつぶしになった頃、藩には足軽などを除くと250人以上の士分の者がいました。
討ち入りに参加した47名と比べると、大部分の元藩士は参加していません。
彼らには、守る家族も家もあり、突然浪人となれば、次の仕官先を探して家族を守ろうとするのは当然のこと。
討ち入りに参加しないのには、彼らなりの事情があるのです。
討ち入りに参加した人々に喝采を送った当時の民衆の気持ちは分かりますが、不参加を「悪」としてその他の浪士たちを責めるのは酷かもしれません。
きょうのまとめ
今回は、「赤穂事件」の討ち入りをしたくても出来なかった人、討ち入りしたくなかった人たちについてご紹介しました。
簡単なまとめ
① 47名の赤穂浪士のうち寺坂吉右衛門だけが何らかの事情で抜け、切腹処分を受けたのは46名だけである
② 討ち入りメンバーから脱落した者には、やむを得ぬ事情に苦しみながら参加できなかった者、生活が堕落して参加できなくなった者、理由が判明していない者などがあった
③ 浅野家のお家再興を願う者は仇討ちを望まず、再興の可能性が消えたときに47名を残して去っていった
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