孔子とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

孔子は、周王朝が衰退した古代中国の春秋時代に魯で生まれた思想家です。

儒教を創始しました。孔子の73年の生涯はどのようなものだったのでしょうか。

また、孔子はどんな容貌、キャラクターをしていたのでしょうか。

そして、孔子が創始した儒教とはどのような教えだったのかについて、簡単にまとめました。

 

孔子はどんな人?

プロフィール
孔子

出典:Wikipedia

  • 名前:氏は孔、名は丘、字は仲尼(ちゅうじ) ※孔子は尊称
  • 出身地:魯国昌平郷(現在の山東省曲阜(きょくふ))
  • 生年月日:紀元前552年
  • 死亡年月日:紀元前479(享年73歳)
  • 古代中国春秋時代の思想家で儒教の創始者

 

孔子 年表

年表

西暦(年齢)

紀元前552年(0歳)魯国(現在の山東省あたり)に生まれる。

紀元前538年(14歳)学を志す。

紀元前534年(18歳)宋の幵官(けんかん) 氏と結婚。

紀元前533年(19歳)子の鯉(り)(字は伯魚)が誕生。

紀元前525年(27歳)魯国に任官する。倉庫番、牛馬の世話係などに任ぜられる。

紀元前518年(34歳)三桓氏のクーデターで魯の昭公が斉へ追放される。孔子も昭公を追い斉へ亡命。

紀元前520年(36歳)魯に帰国。その後は長く仕官せず、弟子をとり教育することに励む。

紀元前501年(51歳)魯の定公によって中都の宰に取り立てられる。

紀元前500年(52歳)大司寇(最高位の裁判官)及び外交官に就任。

紀元前497年(55歳)官を辞し、弟子たちと遊説の旅に出る。

紀元前484年(68歳)13年間の諸国遊説ののち、魯に帰国。子の鯉が50歳で死去。その後、死去するまで詩書など古典研究の整理を行う。

紀元前481年(71歳)歴史書「春秋」の編纂終了。

紀元前479年(73歳)孔子、死去。

 

孔子の出自と生涯

孔子の父親は武人の叔梁紇(しゅくりょうこつ)、母親は身分の低い巫女で顔徴在(がんちょうざい)といいました。孔子は父が60代、母が16歳のときに生まれました。母は正妻ではありませんでした。

孔子は3歳の時に父をなくし、貧しい母子家庭ながら14歳から学を志します。そして、17歳の時に母も亡くなり、孤児となりました。27歳から魯の役人として、倉庫番、牛馬の世話係などの任につきながら、勉学に励んで礼学を修めます。

孔子はのちに、「わたしは幼いとき貧しかったので、つまらない多芸に秀でているのだ」と語ったそうです。また、『論語』には「先生(孔子)はどこで勉強したのですか?」と人に聞かれて、弟子の子貢が「先生はあらゆる所で学びました。決まった先生はいませんでした」と答えています。

孔子は下級役人から徐々に出世して、政治に携わるようになります。分からないことがあればどんな人にでも頭を下げて教えを乞いました。その熱心で謙虚な姿勢から、人々に慕われ、徐々に弟子が増えていきました。

孔子は34歳のときに、クーデターで失脚した昭公を追って魯を出ますが、また帰国。その後、魯では長年任官はしませんでしたが、50代で大司寇(最高位の裁判官)、外交官などといった高い位につきます。そして、三桓氏が強い権力を持っていた魯の政治改革を目指します。しかし三桓氏の勢力は削げずに孔子の改革は失敗。官位を辞して、13年間、諸国遊説の旅にでます。

69歳で魯に帰りますが、任官はしませんでした。私塾を開いて、弟子の教育に力を注ぎます。弟子は3000人に及びました。

その後、死去するまで、『詩経』『書経』などの古い書物を編纂し、儀礼や音楽を整理します。また、魯を中心とした歴史書、『春秋』を創作しました。

孔子の死後、弟子たちによって、孔子のことばや行いをまとめた「論語」が作られました。

 

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孔子の容貌と食へのこだわり

孔子は身長が216センチもあって人は「長人」と呼ばれました。孔子の出身地である山東省は背の高い人が多いのですが、その中でも高身長でした。「荘子」によると「上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていた」そうです。

孔子は生まれつき頭のてっぺんが陥没していてその周りが丘のように盛り上がっていました。そこで「丘」と名付けられたようです。

孔子は食に強いこだわりを持っていました。「十分に精白されている米」「細かく切った冷肉」を好みました。そして、時間たって変色した物、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物、季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物は食べなかったそうです。

そして、「祭祀でもらった肉は当日中に食べる」「自分の家に供えた肉は三日以内に食べ、三日を過ぎれば食べない」「食べる時には話さない」ということにもこだわっていました。

 

孔子の思想

儒教の創始者である孔子。儒教と、儒教による政治理念をご紹介します。

儒教とは

儒教の創始者である孔子。その儒教には「五常」と呼ばれる5つの徳性(仁、義、礼、智、信)があるとされています。

五常

仁:人を思いやること

義:私利私欲に囚われずに、己のなすべきことをなすこと

礼:仁を具体的な行動として体現すること。人間の上下関係で守るべきこと

智:学問に励むこと

信:ウソをつかないこと、約束を守ること、誠実であること

儒教は、これら「五常」を守って、「五倫」と呼ばれる関係(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)を維持することを目的としていました。

儒教の政治理念

孔子が生きた時代の春秋時代末期は、周王朝が衰退して、有力者が覇権を争っていました。争いによって世の中は混乱し、権力者の専横が通って、政治も荒廃していました。

そこで、孔子は徳のある統治者がその持ち前の徳をもって人民を治めるべきであるという、「徳治主義」を打ち出します。

法令や刑罰で厳しく取り締まったり、不必要に重い税を課したり、軍隊によって力づくで押さえつけて民を統治するのではなく、統治者の仁徳や礼によって民を導くのが正しい政治とされました。

儒教にでてくる、仁と礼が政治では大切とされていたんですね。

 

きょうのまとめ

孔子についてご紹介しました。内容を簡単にまとめると、次のようになるでしょうか。

① 孔子は幼い頃から苦労して学を修めて、政治では大成しなかったが、弟子3000人から尊敬される大先生になった

② 孔子は頭頂部がへこんでいて、2メートル越えの高身長で、食にこだわりがあった

③ 孔子の創始した儒教は、「仁、義、礼、智、信」という5つの徳を大切にする教えである

出自に恵まれず、とても苦労して学を修めた孔子。謙虚で、熱心に勉学に励む孔子がたくさんの人から師と慕われたのというのはとても納得できます。また、容貌やこだわりも際立っていますので、きっと目立つ存在だったでしょう。政治では理想を実現できたとはいえませんが、学問にまい進し、慕ってくれる弟子たちとともに歩んだ人生はきっと幸せだったんじゃないでしょうか。

 

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