アダム・スミスとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

経済学の古典とも言われる『国富論』を遺し、

「近代経済学の父」と呼ばれている

アダム・スミス

彼は経済学者であると同時に、哲学者や倫理学者としての顔も持っていました。

アダム・スミスとは一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は、その生涯から彼の人物像に迫ります。

 

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アダム・スミスはどんな人?

プロフィール
アダム・スミス

アダム・スミス
出典:Wikipedia

  • 出身地:スコットランド
  • 生年月日:1723年6月5日
  • 死亡年月日:1790年7月17日(享年67歳)
  • イギリスの哲学者、倫理学者、経済学者。近代経済学の父。

 

アダム・スミス 年表

年表

西暦(年齢)

1723年(0歳)スコットランド、カーコーディで生まれる。幼い頃は虚弱で病気がちだった。

1737年(14歳)グラスゴー大学に入学する。

1740年(17歳)奨学金を得て、オックスフォード大学のべリオル・カレッジに入学する。

1746年(23歳)大学を中退して故郷に戻る。

1748年(25歳)エディンバラ大学で文学や修辞学、哲学史や法学の公開講義を行う。

1751年(28歳)グラスゴー大学の論理学教授になる。翌年、道徳哲学教授になる。

1755年(32歳)グラスゴー文学協会を設立。経済学クラブなどで自身の思想を発表する。

1759年(36歳)著書『道徳感情論』出版。自然法学の研究に重点を置く。

1764年(41歳)グラスゴー大学を辞職し、貴族の家庭教師として約3年間ヨーロッパを旅する。

1767年(44歳)ロンドンに帰国した後、故郷のカーコーディに戻る。それ以降、『国富論』執筆のための研究に没頭する。

1776年(53歳)著書『国富論』を出版。

1778年(55歳)スコットランドの関税委員に任命される。

1787年(64歳)グラスゴー大学名誉総長に就任する。

1790年(67歳)エディンバラで病死。亡くなる数日前、書きかけの原稿を友人に命じてほぼすべて焼却させている。

 

アダム・スミスの生涯

ここではアダム・スミスの生涯の概要と、主な功績をご紹介していきます。

学習意欲おう盛な学生時代

14歳のときにグラスゴー大学に入学したアダム・スミス。

彼はそこで道徳哲学を教えていた哲学者、フランシス・ハチソンに出会い、

後々まで大きな影響を受けることとなりました。

大学を卒業後、奨学金を得てオックスフォード大学に進学したアダム・スミスでしたが、

先進的だったグラスゴー大学とは異なる古い教育と学問に物足りなさを感じ、

彼は在籍しつつも独学で勉強をすることになりました。

そして結局、約6年在籍していたオックスフォード大学を中退し、

故郷のカーコーディに戻ってきます。

学者として教壇に立つ

アダム・スミスはその後、エディンバラ大学

・文学

・法学

・修辞学

・哲学史

などを教える立場として教壇に立ちました。

28歳を迎える頃には、母校グラスゴー大学論理学の教授に就任。

翌年には道徳哲学の教授に転任し、

・自然神学

・法学

・倫理学

・経済学

などについての講義を行っていました。

この時期の彼の思想は、後の著作『道徳感情論』『国富論』の基礎となっています。

約12年の教授生活の間に、彼は様々な書評や論評に自身の思想を掲載していきました。

学者として様々な分野に顔を出す

その後、教授職を辞職したアダム・スミスは、

スコットランド貴族の家庭教師として、

約3年間フランスやスイスなどヨーロッパ大陸の各地を回り、

その間にヴォルテールなどフランス人啓蒙思想家たちとの交流を持つようになります。

ロンドンに帰国するとスコットランドに戻るまでの間、

予算案の検討や植民地問題に関する調査など、

学者としてあらゆる政治問題に関与していきました。

その後故郷のカーコーディに戻ると、

自身の思想を形にするための研究に没頭することになります。

そして再びロンドンに活動の拠点を移すと、

1778年、55歳のときにスコットランドの関税委員に任命されます。

その後も、

自身の研究を続けながら政治家たちへのアドバイザーとしての役割も務めたアダム・スミスは、

1790年に67歳で生涯を閉じました。

2冊の本

冒頭でもご紹介した通り、アダム・スミスの主著『国富論』は、経済学の古典として、

現代まで続く経済学や国の在り方などに関する考え方の基礎となっています。

彼が53歳のときに初版が出版されると大きな反響を呼び、

数々の書評や批評の対象となりました。

従来の常識とは異なるアダム・スミスの主張は、

当初教会や大学など多くの団体から非難されることになりましたが、

その一方で、国の収入改善案に貢献することになるのです。

結果として大成功を収めた『国富論』は、アダム・スミスが亡くなるまでの間に、

改訂と増補が繰り返され第6版まで刊行されました。

そして彼が遺したもう一冊の著書『道徳感情論』は、『国富論』を書くよりも前、

まだグラスゴー大学で教授職を勤めていたときに出版されました。

大学で道徳哲学教授として働いていたアダム・スミスは、

その当時の倫理学の授業を基にこの本の中で彼の考えを表しています。

この『道徳感情論』も後の『国富論』と同じく成功を収め、

彼の思想を気に入った貴族たちにより、

アダム・スミスは家庭教師という職を手にすることとなったのです。

 

アダム・スミスにまつわるエピソードや伝説

ここでは、アダム・スミスにまつわるエピソードをご紹介していきます。

ヒュームとの親交

アダム・スミスが大学で教授職に就いて間もなく、

彼はイギリス経験論哲学の完成者、ヒュームと出会います。

それ以降親交を持つことになった二人はお互いの研究で意見を求めたり、

協力し合う関係となり、その親交はヒュームが亡くなるまで約26年もの間続きました。

ひ弱な少年期

1723年の6月5日、スコットランドのカーコディで生まれたアダム・スミス。

父親はカーコディの関税監督官を務める人物でしたが、

生まれてくる息子の顔を見る前に亡くなっています。

幼少期のアダム・スミスは内向的でか弱く病気がちな体質でもあったため、

母の手で注意深く育てられました。

事件は、彼が3歳を迎えた頃に起こります。

母親の実家近くの町で、浮浪者によって誘拐されてしまったのです。

浮浪者の目的は、この幼い少年をスリに仕立て上げることでした。

しかしここで、少年期の彼の性格が自身を守ることになります。

彼のあまりに内向的な様子に、とてもじゃないがこいつはスリなんかできない、

と浮浪者の方が根を上げ、間もなく解放されたのです。

こうして、アダム・スミスは無事に母の元に戻り、

その後「近代経済学の父」へとつながる学者としての道を歩むことになりました。

 

きょうのまとめ

今回は「近代経済学の父」アダム・スミスの生涯について、

彼の功績と共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、アダム・スミスとはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 18世紀に活躍したイギリスの哲学者、経済学者、倫理学者。

② 主著『国富論』は当時の人々に広く衝撃を与え、現代にも続く経済学の古典として扱われている。

③ 『国富論』以前に書いた『道徳感情論』は、彼が教授職を務めていた際の倫理学の授業が反映されている。この本も成功を収め、アダム・スミスは貴族の家庭教師としての職にも就いていた。

『国富論』により、「近代経済学の父」と呼ばれるようになったアダム・スミス。

しかし意外にも、彼が生涯で世に送り出した本はたったの2冊でした。

それでも、その2冊のなかに込められた彼の深い哲学は当時の人々に広く衝撃を与え、

現代でも参考になるほど普遍的かつ先進的なものだったのです。

  

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