ドラマで有名な水戸黄門のことなら多少の知識がありますよね。
そしてテレビの黄門さまはほとんどフィクションだということも知ってますよね。
じゃあ、本当の水戸黄門こと
徳川光圀とはどんな人物だったのでしょうか。
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徳川光圀はどんな人?
- 出身地:水戸国(現在の茨城県水戸市宮町)
- 生年月日:1628年7月11日
- 死亡年月日:1701年1月14日(享年73歳)
- 水戸学を創始した、我が道を行く剛毅の第二代水戸藩主
徳川光圀 年表
西暦(年齢)
1628年(1歳)常陸国水戸藩主徳川頼房の三男として生まれる
1654年(27歳)前関白近衛信尋の次女・尋子(泰姫)と結婚
1661年(34歳)水戸藩28万石の第二代藩主となる
1690年(63歳)隠居。権中納言となる
1700年(73歳)西山荘にて没する。享年73
1906年(没後)水戸徳川家13代当主徳川圀順が『大日本史』を完成させる
徳川光圀とは
徳川光圀は、「江戸初期の三名君」の一人として会津藩主・保科正之、岡山藩主・池田光政(いけだみつまさ)と並んで称された人物です。
徳川幕府初代将軍・徳川家康は祖父に持ち、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として誕生。
事情があって三男である圀が光水戸家を継ぐことになりました。
若い頃の光圀はかなり素行の悪い不良少年。
しかしそんな光圀も、18歳のときに司馬遷の『史記』にひどく感銘を受けてからは、それまでの態度を改め、学問に没頭します。
水戸藩主となってからは、自我の強い性格を藩政に活かして、さまざまなことにチャレンジしました。
上水道(笠原水道)の整備、巨大船・快風丸での蝦夷地探検。
そして江戸の小石川藩邸に「彰考館」と呼ばれる史局を置いて、本格的な日本の通史『大日本史』の編纂作業を行います。
儒学を奨励し、「水戸学」の基礎を築きました。
その合理的かつ剛毅な性格で幕政に関しても発言力があり、
五代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」にも猛反発。
将軍に逆らうことの出来る数少ない人物の一人でした。
ただ、藩を挙げての日本史編纂事業は、評価される一方、藩財政を圧迫し領民への負担をかける問題になったといいます。
やがて光圀は兄・頼重の子供である綱條を養子として迎え、三代目水戸藩主としました。
藩主を退いたあとの光圀は、西山(現在の常陸太田市)にて隠居生活を送り、晩年は、侍塚古墳の発掘調査、那須国造碑などの文化財保護に尽力しています。
1701年に食道がんのため他界。
享年73。
極悪青年から名君へとなった秘密
実は徳川光圀は、のちに名君と言われるにはそぐわない、とてもワイルドな青春時代を送った人物でした。
どうしてそんな少年・青年時代を送ったのか、
そして一転して彼を名君へと変身させた書の存在、水戸藩の次代当主についての考え・・・。
ある一つの問題が彼をそう生きさせたのです。
最凶の青年、光圀
派手な格好をし、女物の着物を羽織り、襦袢をちらつかせて、カブキ者や男伊達と呼ばれる荒々しい振る舞いの男たちと群れ、町を闊歩する青年・・・それが若き日の徳川光圀でした。
恐喝、暴行するかと思えば、
元服もしない頃から吉原などの遊郭通いも。
『桃源遺事』
であり、運動神経もよく、腕力も抜群、剛毅な性格の若者だったので、仲間の青年たちの間でも人気抜群。
それが水戸藩主の息子ですから手に負えません。
おそばの家臣たちの注意も聞かず、好き放題し、刀の試し斬りのために浅草寺境内で訳もなく人を殺めるまでしたということです。
ワルの理由
光圀がグレるのにはわけがありました。
兄と共に、生まれる以前から父の頼房からその誕生を認められていなかった光圀。
密かに生まれた後に兄弟が父に認められるタイミングがずれたのです。
兄の頼重がようやく15歳で父に接見出来たときは、すでに弟の光圀が水戸藩の跡取りに決定していました。
長男の頼重はまるで次男扱い。
そんな事情から、光圀は6歳も年上の兄を差し置いて自分が世継ぎとなったことに複雑な感情を抱き、「グレて」しまったのです。
光圀を開眼させた書
18歳の時、光圀は司馬遷が著した歴史書『史記』の『伯夷伝』を読んで、伯夷・叔斉兄弟の家督譲り合いの話に強い感銘を受けます。
そして、それまでの酷い蛮行を深く反省し、
生活ぶりを一変させ、猛烈な勢いで勉学に励むようになりました。
兄への誓いと『大日本史』
一方、兄の松平頼重は、讃岐高松藩松平家の藩主となりました。
光圀は水戸家の長男に生まれながら、本家の家督を継げなかった兄の辛い立場を思います。
そして、兄への償いとして、
ことを密かに心に誓ったのです。
実は、光圀が水戸藩挙げての『大日本史』の編纂を決心したのは、1657年に起きた明暦の大火で貴重な歴史史料が多く焼亡したことにショックを受けたことに加え、兄弟愛が書かれたあの歴史書『史記』に受けた影響が大きかったのです。
父との約束、兄への誓いを実行へ
父、頼房が亡くなるときの遺言がありました。
それは、「家臣たちに追い腹を切らせるな」ということ。
殉死の空しさを理解した光圀は、頼房の死後、後を追って腹を切ろうとしていた家臣たちのもとへ一人ずつ訪ねて行き、死ぬことを禁じたといいます。
このように、極道と言われかねない程の青年だった光圀は、既に情と合理性を併せ持つ人物へと変わっていました。
やがて光圀は、兄の頼重の息子綱條を養子に取り、第三代水戸藩主に据えます。
密かに誓った「兄・頼重の血を水戸藩へ戻すこと」を実行したのです。
光圀の生き方には、不良だったときから、名君と呼ばれる藩主になった後も、一貫して兄への思いがありました。
徳川光圀の優しさと純粋さ、そして強い意志が感じられる生き方だとは思いませんか。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
徳川光圀とは、
① 幕政にも一家言持つ、江戸初期の三名君の一人
② 兄への贖罪を背負った弟
③ 情けと合理性を併せ持つ剛毅の人
④ 文化事業を推進し、水戸学の礎を築いた水戸藩主
その他にも徳川光圀にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞご覧ください。
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