板垣退助とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

板垣退助とはどんな人物だったのでしょうか。

「板垣死すとも自由は死せず」くらいしか知らないよ、という方も多いはず。

そこで今回は、板垣退助の生涯について簡単にまとめてみました。

 

板垣退助はどんな人?

プロフィール
板垣退助

出典:Wikipedia

  • 出身地:土佐(現在の高知県)
  • 生年月日:1837年5月21日
  • 死亡年月日:1919年7月16日(享年83歳)
  • 明治の政治家。自由民権運動のカリスマ。

 

板垣退助 年表

年表

西暦(年齢)

1837年(1歳)土佐(現在の高知県)に生まれる。(幼名、猪之助)

1867年(31歳)薩土密約を結ぶ。

1871年(35歳)新政府の参議となる。

1873年(37歳)明治六年の政変で下野。

1874年(38歳)愛国公党の結成。民撰議院設立建白書の提出。立志社の結成。

1875年(39歳)愛国社の結成。

1881年(45歳)自由党の結成。

1882年(46歳)岐阜事件(暗殺未遂事件)。ヨーロッパ外遊(~1883年6月)。

1884年(48歳)自由党解党。

1896年(60歳)第二次伊藤内閣の内相に就任。

1898年(62歳)憲政党を結党。第一次大隈内閣(隈板内閣)成立、内相に就任。内閣総辞職。

1900年(64歳)政界を引退。

1919年(83歳)死去。

 

板垣退助の生涯について

土佐時代

板垣退助は、土佐藩上級藩士の家の長男として誕生しました。

土佐時代の板垣は藩主・山内容堂やまうちようどうからの信頼を受け、側用人などを務めています。

幕末には坂本龍馬らが大政奉還の平和路線を進める一方、

板垣は武力倒幕のために西郷隆盛らと薩土密約さつどみつやく(薩摩藩と土佐藩の実力者の間で交わされた、武力討幕のための軍事同盟)を結びました。

そして戊辰戦争の際には、会津城を攻め落とすなどの働きをしています。

自由民権運動の始まり

明治新政府に出仕することになった板垣は、参議に就任しました。

岩倉具視使節団が欧米を歴訪した際には、西郷らとともに留守政府を預かる立場になります。

しかし明治6年(1873)には、征韓論を唱えるも敗れ、西郷・後藤象二郎らと下野します。

その翌年、後藤や副島種臣そえじまたねおみ・江藤新平らと東京で愛国公党を結成し、

国会開設を要求する民撰議院設立建白書を政府に提出に提出しました。

政府からはまだ早いと無視されますが、これがきっかけで自由民権運動が始まります。

土佐に戻ると、元士族たちを中心とした政社・立志社を結成しました。

日本で初めての本格的な政党である自由党を結成、総理に就任した板垣は全国で演説を行います。

岐阜で演説した際には暴漢に襲われ、

板垣
板垣死すとも自由は死せず

という名言を残したとされています。

その後、板垣はヨーロッパに外遊しますが、このときの資金が政府寄りの三井財閥から出ていたことが発覚。

それに反発した党員が脱退するという騒ぎになってしまいます。

これに加え、政府からの取り締まりも強化されたこともあり、自由党はわずか3年で解党してしまいます。

ですが自由党は再興され、板垣はその総理の座に就きます。

国会開設後の1898年、板垣率いる自由党は大隈重信の進歩党と合流し、憲政党を結成しました。

 

 

日本初の政党内閣

そして日本初の政党内閣である、第一次大隈内閣の内相を務めます。

この内閣は大隈と板垣から一文字ずつ取り、隈板わいはん内閣とも呼ばれます。

しかしこの内閣は、わずか4カ月で総辞職に追い込まれます。

その後政界を引退した板垣は、83歳でその生涯を終えました。

 

 

板垣退助にまつわるエピソード

内閣総理大臣を断っていた

国会開設を訴えながら、生涯一度も国会議員にならなかった板垣退助。

ですが実は、伊藤博文から内閣総理大臣にならないかと、打診を受けていたといいます。

しかし板垣は自分は総理の器ではないとして、これを断りました。

そして自由党を挙げて大隈重信に委ねるとして、隈板内閣が誕生したということです。

なんだかもったいない気もしますね。笑

なぜ板垣の姓を名乗ったのか?

板垣退助はもともと、いぬいという姓を名乗っていました。

ですが戊辰戦争が起こった頃、岩倉具視の勧めで板垣の姓に変えたといわれています。

なぜなら板垣退助は、あの超有名な戦国武将、武田信玄の家臣・板垣信方の末裔だったからです。

板垣信方は武田信玄の24将のうち、ナンバー2の人物として知られています。

さて、当時の板垣は新政府軍側として参戦しています。

進軍の途中、幕府側だった甲州に(現在の山梨県)差し掛かりますが、

板垣信方の子孫だということを知った甲州の軍は、戦わずして新政府側に寝返ったといわれています。

何よりも、武田信玄の人気は絶大であることがわかりますね。

 

きょうのまとめ

今回は板垣退助の生涯やエピソードについてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

① 土佐出身の板垣は武力倒幕派だった

② 下野したあとはいくかの政治団体を設立し、自由民権運動のカリスマとなった

③ 板垣退助は内閣総理大臣の話を断っていた

④ 板垣退助は武田信玄に仕えた板垣信方の末裔だったため、乾から板垣へ姓を変えた

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ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね。

 
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