徳川秀忠の死因とは?実はマッチョで健康体?

 

徳川家康の後継ぎ、二代目将軍

徳川秀忠とくがわひでただ

三代目徳川家光が有名で秀忠は影が薄い印象です。

徳川秀忠はいつ、どのように亡くなったのでしょうか。

今回は徳川秀忠の死因についてお伝えします。

 

徳川秀忠の健康について

徳川秀忠

徳川秀忠像(松平西福寺蔵)
出典:Wikipedia

真面目で大人しい性格といわれている徳川二代目将軍、秀忠。

勉強好きであまり活発なイメージはありません。

しかし発掘調査研究によると、秀忠は筋肉質であったことが判明しています。

また骨には複数の弾痕が見つかり、最前線での指揮をとっていたことも分かります。

つまり、真面目で大人しい性格だけではなく、ときには力強い武将であったことも判明しているのです。

記録としては秀忠の病歴は記載が無く、非常に健康的な人であったとされています。

 

徳川秀忠の死因について

徳川秀忠は寛永8年(1631)に発病し、翌9年1月24日に54歳で亡くなったとされています。

父の家康は75歳で亡くなっていますので、それに比べると短い一生ではないでしょうか。

秀忠の死因は、一般的には「胃がん」だと言われています。

「全身に腫れ物が出来た」という資料が残っており、「悪性リンパ腫」の可能性もあります。

実は父の家康も「胃がん」です。

親子同じ病気であった可能性もあり、遺伝・家系という見方もできそうです。

一般的には胃の不調はストレスが原因であることが多く、戦国の世、多くのストレスがあったのではないでしょうか。

ちなみに三代目将軍家光は幼少の頃から病気がちで、死因は脳血管疾患、脳出血だったと言われています。

 

遺言により質素な葬儀

真面目な秀忠は質素な葬儀を行うよう遺言を残しました。

その遺言は

葬儀・法会とも倹約を旨とし、霊牌の他、新しく作るべからず

とあったと言われています。

遺言通り、土井利勝及び近臣10人程度で奉供するのみで、僧侶はひとりも従いませんでした。

葬儀は行わず、密かに増上寺に遺体を移されます。

増上寺に葬られた秀忠の棺はヒノキ製の死者のあったおとき、間に合わせで作る早桶はやおけと呼ばれるものでした。

初代徳川家康、三代目家光とは異なり、非常に質素な葬儀でした。

 

きょうのまとめ

徳川秀忠の死因について見てきましたが、いかがでしたでしょうか

徳川秀忠の死因について簡単にまとめると、

① もともとは筋肉質で健康的な人

② 死因は父家康胃と同じ胃がんであった可能性が高い

③ 葬儀は遺言により質素に行われた

と言えるのではないでしょうか。

徳川秀忠については、他にも色々な記事があります。

よろしかったらご覧になってみて下さい。
 
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