宇喜多秀家と関ヶ原の戦い

 

宇喜多秀家うきたひでいえは関ヶ原の戦いで西軍につきました。

1万6千の軍勢を動員したと伝えられています。

当日は福島正則の軍勢と激しくぶつかり、両軍が一進一退の攻防を繰り広げていました。

日和見を決め込む大名もいる中で獅子奮迅の働きだったのです。

今回は宇喜多秀家と関ヶ原の戦いについてみていきたいと思います。

 

なぜ西軍の中心人物となったのか?

宇喜多秀家

宇喜多秀家
出典:Wikipedia

関ヶ原の戦いで西軍最大の軍勢を動員した宇喜多秀家。

なぜ、彼は西軍の中心人物になったのでしょう。

それは幼少時にさかのぼります。

秀家は父の死後、わずか9歳で宇喜多家を継ぎます。

宇喜多家は秀吉軍の毛利攻めに加わり、備中高松城攻めにも宇喜多勢は加わっています。

所領安堵と引き換えに織田方に寝返ったのです。

この時の功績で宇喜多家は57万石あまりの大大名になりました。

織田家とその跡を継いだ豊臣家に深い恩義がありました。

また、秀家は豊臣秀吉のお気に入りだったと伝えられています。

外様ながら豊臣家に対する忠誠心が篤かったのでしょう。

秀家は迷うことなく西軍についたと思われます。

 

関ヶ原の戦い当日

序盤は福島正則勢と互角の戦い

秀家は1万6千の軍勢を率いて、東軍最強と言われた福島正則勢と激突。

双方の旗が「数回前進と後退を繰り広げた」と伝えられています。

西軍でまともに戦っていたのは宇喜多勢と石田勢、小西勢、大谷勢くらいでした。

横の連携が取れておらず、組織的とは言えず、中には島津勢のように全く動かない者もいました。

毛利勢のように明らかに東軍との内通が疑われる軍勢もいました。

南宮山に布陣した吉川広家が東軍に内通して動かなかったのです。

こうした連携不足はいかんともしがたい状況でした。

西軍は当初、士気の高さで東軍を圧倒しましたが、士気の高さだけでは限界があり徐々に消耗していきます。

やがて東軍優性になり、決定的な事態が起こります。

小早川秀秋の裏切りで敗走

松尾山には小早川秀秋が布陣していました。

ここから東軍めがけて彼らが駆け下りたらどうなっていたでしょう?

歴史に「IF」は禁物ですが、西軍がかなり優勢になっていたはずです。

ところが、小早川秀秋は東軍に寝返ったのです。

西軍めがけて松尾山から小早川勢が押し寄せました。

これでは宇喜多勢もたまりません。

東軍や寝返った小早川勢が宇喜多勢を撃破し、宇喜多勢は壊滅状態になります。

秀家は

金吾(小早川秀秋)を斬ってやる!

と叫びました。

松尾山に乗り込もうとしたのを家臣に止められました。

かろうじて落ち延びた秀家は島津家を頼って薩摩へ逃げます。

ただ、島津家も徳川家に臣従するようになります。

秀家をかくまっているという噂が広まり、かばいきれなくなりました。

徳川幕府に引き渡された秀家は八丈島に流罪になります。

 

きょうのまとめ

宇喜多秀家についていかがでしたでしょうか。

宇喜多秀家と関ヶ原の戦いについてまとめると

① 織田家、豊臣家への恩義により西軍の中心人物に

② 東軍最強と言われた福島正則勢と互角の戦い

③ 敗戦後は、八丈島へ流罪となる

と言えるのではないでしょうか。

宇喜多秀家については、他にも色々と記事を書いています。

よろしければご覧になって下さい。

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