大坂夏の陣で目覚しい働きを見せ、日本一の強者と言われた
真田幸村。
そんな幸村と独眼竜で有名な仙台の伊達藩主、伊達政宗には意外な関係があったようです。
真田幸村は豊臣方、一方の伊達政宗は徳川方だったのですから、当然二人はライバルだったはずです。
そんな真田幸村と伊達政宗がどのように関係していたのか、ちょっと探ってみましょう。
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年齢が同じ
真田幸村は1567年生まれです。
偶然にも伊達政宗も同じ1567年に誕生しました。
生まれは同じ年ですが、真田幸村は一国一城の主でもなく、その上次男でした。
片や伊達政宗は仙台60万石の大名の嫡男としてこの世に生を受けました。
二人は同じ年齢だったのですが全く違う人生を歩むことになります。
しかし同じ年というだけでは歴史的にもつまらないですね。
そう、もっと深い繋がりはなかったのでしょうか。
真田幸村が認めた男
妻子への想い
大坂夏の陣で、劣勢となった豊臣方をみて真田幸村は大坂城に残した妻子のことが気がかりでした。
自分はその運命を豊臣とともにするつもりでしたが、妻子は別です。
大坂城が落ちるまでそこにいれば、豊臣方として男子は処刑され、女子も命が助かったとしても出家する他道はなかったでしょう。
それをなんとか助けてもらう方法はないかと、思い倦ねた幸村は、
死の前日、伊達政宗の参謀の片倉小十郎景綱の嫡男、片倉小十郎重綱という人物に目をつけます。
後藤又兵衛を討ち取った上、幸村と面しても一歩も引くことなく戦う姿に惚れ込みます。
さらに真田軍の敗走を徳川方は追いましたが、伊達政宗は追撃してきません。
これで幸村の気持ちは決まりました。
伊達家へ
義に厚い伊達政宗ならそのほかの子供達も守ってくれるかもしれない。
幸村は大坂城にいる子供達に手紙を渡し、伊達家の庇護のもとに命永らえて欲しいと願ったのです。
幸村の願い通り、伊達家は子供達を徳川から守ってくれました。
阿梅は最初は片倉小十郎重綱の正室が妹のように可愛がってくれました。
しかしその正室が病で早逝したため、後室として重綱の妻になったのです。
余談ですが、阿梅は美人で、重綱もハンサムだったそうです。
ほかの子供たちも、女の子はしっかりした所へ嫁ぎ、幸村の次男大八は、片倉家に仕え守信と名乗りました。
幸村の子供が、しかも男子が生きていることが徳川に知られたら、伊達家も片倉家もおしまいです。
そんな危ない橋を両家は渡ってくれたのでした。
真田幸村の人を見る目に間違いはなかったということですね。
そして伊達政宗や片倉家の情の深さに感動さえ憶えます。
きょうのまとめ
それから約100年後伊達家の家臣、片倉辰信という武士が先祖の姓へ戻ることを許されました。
そうその名は「真田」です。
ついに真田幸村の家は再興されたのでした。
全て、真田幸村と伊達政宗の想いが一つとなったからこそなし得たことだと感慨深い思いでいっぱいです。
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こっこれは、わかりやすい!
ありがとうございます!