武将として名高い加藤清正ですが、意外にも彼はトップクラスの築城の名手だったのです。
同じように築城のプロであった藤堂高虎や黒田官兵衛などと並んでも、
その実力は一段飛び抜けていました。
ここでは加藤清正が築いた城やその技法についてみていきましょう。
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清正の築いた城の特徴
石垣
熊本城を訪れたことのある人なら誰でも一様に驚くのが、
石垣の積み上げ方の美しさです。
この石垣は地面に近い方が勾配が緩く、上へ行くほどきつくなっています。
とても独特な作りで「武者返し」、「扇の勾配」と呼ばれています。
敵が登ろうとしても上へ行くほど反ってくるので、とても登り切ることはできなかったでしょう。
明治になって、政府と旧薩摩藩の士族が戦った「西南の役」はこの熊本城での攻防戦で勝敗が決まっているのです。
城の中の4000人に対して約3倍の兵力を持つ西郷隆盛が54日にも及ぶ猛攻を見せましたが、
ついにこの熊本城を落とすことはできませんでした。
この時西郷隆盛は
と言ったそうです。
優れたこの石垣は清正が近江から連れてきた職人たち「穴太衆」によって作られたものです。
籠城戦に対しての整備
熊本城の中には120もの井戸があります。
これは長い籠城に対しても、
水が不足することのないようにと作られたものです。
そして非常食としてレンコンが栽培され、梅や銀杏が植えられていました。
畳には芋茎を入れ、壁の中にはかんぴょうを塗り込んで、いざという時に食料となるように準備されていました。
徹底した籠城対策ですね。
熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれています。
それは本丸にある大銀杏に由来するそうです。
しかしこの大銀杏は雄で実をつけないので、食料としては使えませんでした。
最初からわかっていて、この城のシンボルとして植えたものだったのでしょうか。
それとも実がなるものを期待していたのでしょうか。
多分前者の方だと思います。
食料にならないとわかったら切り倒して実のなる木を植え直しているはずです。
こんなに徹底して食料確保をしていたのですから。
楠木も植えてあります。
楠木の根からは油が取れることから、こちらは籠城対策として植えられたものでしょう。
きょうのまとめ
このように加藤清正の作った熊本城は高く評価され、
名古屋城や江戸城の石垣作りなどの改築を任されることとなりました。
また九州では府内城などの改築もしています。
加藤清正は朝鮮出兵の時の実体験を元に、
これらのことを多く学び活かしてきたのでしょう。
加藤清正の作った見事な城は、最近起きた熊本地震によりかなりのダメージを受けたようですが、
人の力では絶対に堕ちない強く美しい城だったのです。
改めて加藤清正の築城技術に頭が下がります。
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