井伊直弼といえば、
「桜田門外の変」とすぐに思い浮かびませんか?
日本史が苦手でもこの事件と人物だけは知っているという方が多いようですね。
どのような事件だったのか見ていきましょう。
意外な事実がわかります。
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桜田門外の変
時の大老井伊直弼が、水戸藩士達により桜田門の近くで襲撃、暗殺された事件です。
幕末を舞台にしたドラマや小説でほぼ必ず取り上げられるので、
知らない人はいないのではないでしょうか?
非常に有名な事件ですね。
事件の原因は何?
井伊大老の強引なやり方が反発を招いて起きた事件とみられています。
当時の日本には外国船がたびたび訪れて
、
社会にはこの先どうなるのかという不安が渦巻いていました。
・日米修好通商条約調印問題
・厳しい粛清を行なった安政の大獄
といった事柄が複雑に絡んでしまったのです。
どんな人達が襲撃、暗殺したの?
水戸藩士達、とされていますが脱藩した元・藩士達です。
17名、そこに薩摩藩士1名がプラスされます。
薩摩藩士達も井伊大老を暗殺しようと画策していました。
彼らには事件を起こすにあたり、心得がありました。
でした。
「襲撃中負傷したものは自殺する」ということも決められていたそうで命がけでした。
まず銃弾を発砲し、駕籠の中から井伊直弼を引きずり出して首を切り落としました。
彦根藩家臣達は主君の首を敵に奪われまいとして争奪戦になりますが、奪われずにすみました。
真っ白な雪の中に真っ赤な血が飛び散っていた、凄惨な状況だったでしょうね。
天気が運を左右した?
事件の起きた日時は1860年3月3日(現在の太陽暦にすると3月14日です。)
午前9時頃でした。
その日の天気は雪。
3月だというのにかなりの雪だったそうです。
江戸時代、登城する時には刀身・鞘などは覆い布をかぶせるのがきまりでした。
かぶせていなかったら戦闘態勢ということですから、幕府への反逆の意思ありとみなされてしまうわけです。
井伊大老はちゃんときまりを守っていたのですね。
そのような状況に季節外れの雪。
家臣や護衛の者達はカッパを着用していました。
普段よりも身動きが取れないという状態になりますね。
そこへ水戸藩士達が襲撃したわけです。
井伊大老の住む彦根藩邸から桜田門までの距離がどのぐらいであったかといいますと、
わずか100メートル。短い距離だったのですね。
天気が悪くなければ井伊大老は無事でした。
彦根藩の家臣達は剣の達人達の集まりといってもいいぐらいの腕の持ち主で、
水戸藩士達は即刻斬られていたでしょう。
雪が井伊大老の明暗を分けてしまいました。
井伊大老は事件を覚悟していた?
幕府を動かしている身の上ですから、
やはり何か起こるというのは大老職を引き受けた時からわかっていたのでしょう。
戒名をつけていました。
捨て身の、決死の覚悟で仕事をしていたのですね。
次期将軍選びでは水戸の徳川斉昭と渡り合わなければなりませんでしたし、
日米修好通商条約調印をするにしても、
反対する天皇、朝廷側とせかすアメリカの間で相当苦悩しました。
桜田門外の変が起こる前から井伊大老は命を狙われているという噂があり、
本人も耳にしていました。
なんと事件当日の朝、
邸内に殺害予告ともいうべき封書が投げ入れられていたのでした。
きょうのまとめ
井伊直弼はこの先どうなるの?
という雰囲気の中で厳しい粛清を行い、人々を不安にさせてしまいました。
そのような中、暗殺。
井伊直弼の死をきっかけに政局は大きく動いていくことになります。
幕末の歴史が一気に加速し始めます。
日本史史上とても重要な事件の一つですね。
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