藤原秀衡とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

平安時代末期、平氏、源氏と並ぶ武家の一大勢力・奥州藤原氏を率いた

藤原秀衡ふじわらのひでひら

源義経の育ての親となったり、源頼朝が武家政権を築くうえで、最後の敵として立ちはだかったり。

鎌倉幕府の創成期において、さまざまな局面で関わってくる重要人物です。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、田中泯さんが配役に決定。

東北の猛者たる、貫禄ある演技に期待がかかります!

藤原秀衡とはどんな人だったのか、放送に先駆けてしっかりチェックしておきましょう。
 

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藤原秀衡はどんな人?

プロフィール
藤原秀衡

「三衡画像」より藤原秀衡像(毛越寺一山白王院蔵、江戸時代)
出典:Wikipedia

  • 出身地:奥州平泉(現・岩手県奥州市平泉町)
  • 生年月日:1122年
  • 死亡年月日:1187年11月30日(享年66歳)
  • 平安時代末期、東北地方で権勢を誇った奥州藤原氏の最盛期を担った当主。鎮守府将軍、陸奥守むつのかみなどの官職を賜った。

 

藤原秀衡 年表

年表
西暦(年齢)
1122年(1歳)奥州藤原氏当主・藤原基衡の次男として生まれる。

1157年(36歳)父基衡が死去し、家督を相続。出羽国・陸奥国(東北地方)の押領使となる。

1170年(49歳)朝廷より鎮守府将軍の官職を賜る。

1174年(53歳)鞍馬寺から出奔した源義経を受け入れ、養育する。

1181年(60歳)平家の推挙により、秀衡に源頼朝追討の院宣が下る。同年、陸奥守に任じられる。

1187年(66歳)源平合戦後、鎌倉方から追われる身となった源義経を匿う。同年10月29日、病没。

 

藤原秀衡の生涯

藤原秀衡の生涯にまつわるエピソードを紹介します。

奥州藤原氏とは

奥州藤原氏は、藤原清衡を祖とする一族であり、秀衡はその三代目にあたります。

古来、関東以北には蝦夷えみしという民族がおり、このうち平安期に朝廷配下となったものを俘囚ふしゅうと呼びました。

奥州藤原氏は、この俘囚の流れを汲んでいます。

俘囚は「朝廷より食料などを与えられる代わりに服従を誓う」という明確な主従関係下に置かれていました。

元来より朝廷配下にあった大和人とは区別され、より下位と見なされていたとも。

反面、その地位ゆえに租税を免除されており、この点を利用して隆盛を極めていったのが、奥州藤原氏です。

初代・清衡は奥六郡(現・岩手県奥州市~盛岡市)を中心に、産出される砂金などを交易に用い、奥州藤原氏に莫大な富をもたらしました。

一方で朝廷へも比類のない貢納を行っており、国内における影響力は軽視できないものに。

こうして陸奥国・出羽国に渡る東北一帯の押領使を任されるようになり、一大勢力へと育っていくのです。

(※押領使…治安維持を任される役人。警察のようなもの)

奥州藤原氏の最盛期を担った秀衡

奥州藤原氏は初代・清衡の代で頭角を現し、三代目の秀衡の代に最盛期を迎えます。

秀衡は36歳のころ、父基衡より当主の座を引き継ぐことに。

そしてその力を認められた結果、1170年には、朝廷より鎮守府将軍の地位を賜るのです。

鎮守府将軍は東北地方の武士を統括する官職。

このあと源頼朝が征夷大将軍となるまでは、武家において最高位にあたるものでした。

俘囚の末裔である秀衡がこの任官を受けたことに、関白・九条兼実かねざねらが反感を示したという話も。

奥州藤原氏の力は絶対的なものになっていたとはいえ、朝廷には

「どうして俘囚ごときに…」

という風潮が根強くあったのですね。

また、奥州藤原氏は初代清衡のころから、三代に渡り

・中尊寺(清衡)

毛越寺もうつうじ(基衡)

・無量光院(秀衡)

という、荘厳な寺院をそれぞれ建築しており、秀衡の代の奥州平泉は、京都にも負けない華やかな街並みに育っていたのだとか。

1184年、平家によって焼き払われた東大寺の再建に際しても、秀衡は源頼朝が納めた額の5倍にあたる五千両を納めたといいます。

奥州藤原氏は文字通り、当時として右に出る者のいないほどの国力を誇っていたのですね。

源義経を養育する

藤原秀衡には、若かりしころの源義経の面倒を見たという逸話も残されています。

平治の乱で源氏が衰退し、京都の鞍馬寺に預けられていた義経は、1174年に寺を出奔。

僧となる道を拒否し、武士を志します。

このとき、一番に頼ったのが奥州藤原氏でした。

朝廷で覇権を誇る平氏に対抗し得る勢力は、奥州藤原氏しかない。

義経はきっとそんな野心を胸に、秀衡のもとを訪れたのではないでしょうか。

秀衡も義経を気に入っていたようで、1180年、義経が源頼朝の挙兵に従おうとした際には、佐藤兄弟という配下を同行させました。

また、平氏が源氏討伐に乗り出した際、頼朝と親交のあった朝廷官吏・三善康信は

「奥州藤原氏のもとへ逃げたほうがいい」

と、頼朝を促しています。

こういった多くの事例からも、奥州藤原氏が一目置かれる存在であったことがわかりますね。

源平合戦で平氏に頼られるも、出兵せず

1181年のこと、平家方は秀衡に向けて、源頼朝追討の院宣を引き出します。

(※院宣…上皇からの宣旨(命令)のこと)

さらに秀衡を陸奥守に任じることで、頼朝の背後を抑えるけん制の役割を与えました。

平家方は奥州藤原氏を味方につけ、源氏との抗争を有利に進めようとしたのですね。

実際、源頼朝が範頼のりより、義経という弟たちを平氏討伐に赴かせ、自身は鎌倉に留まったのは、背後の秀衡を恐れてのことだという話もあります。

しかし結局、源平合戦において、秀衡が兵を挙げることはありませんでした。

院宣を受けながら、あくまで中立の立場を貫いたのは、俘囚の末裔だといって自分たちを見下す朝廷への反感からともされています。

あるいは、奥州藤原氏をここまでの地位にいたらしめた秀衡のこと、頼朝は敵に回してはいけない相手だと、どこかで感じ取っていたのかもしれません。

源頼朝との政治上の攻防

1185年、「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡。

一手に国を治めようと考える頼朝にとって、邪魔になる勢力は、残すところ奥州藤原氏のみとなりました。

しかし戦をするには朝廷からの宣旨が必要。

鎌倉方は政権を手繰り寄せるために朝廷と歩調を合わせてきたのに、その意に背いて勝手に戦をしてしまっては台無しになってしまいますよね。

ただ、奥州藤原氏はそもそも鎌倉方の害となるようなことも、朝廷に咎められるようなこともしていません。

また、後白河法皇は奥州藤原氏を、勢力を増した頼朝を抑えておく最後の砦と考えていたこともあり、頼朝が宣旨を得ることは容易ではありませんでした。

ここから、秀衡と頼朝の政治上の攻防が激しさを増していくこととなります。

まず、1186年のこと、頼朝は秀衡に向け

頼朝
これからは朝廷へ貢納品を送る際、鎌倉が仲介役を引き受ける

という書状を送ります。

これまで直接納めていたものに対し

「今後は鎌倉を通せよ!」

と命じ、自分のほうが地位が上であることを示したわけです。

明らかな挑発行為ですが、秀衡はこれに大人しく応じ、頼朝との衝突を避けました。

そしてこの翌年再び、頼朝が秀衡に送った書状がこんな内容。

頼朝
・平家によって奥州に配流となった公卿くぎょう・中原兼実かねざねが、京都に帰りたいと言っているのに、邪魔してるよね?

・最近、陸奥国からの貢納金減ってない?東大寺再建の費用が足りないから、3万両ほど納めるように

・源平合戦とか、あちこちで戦が起こっていたのに、まったく挙兵してないのなんで?

これに対して、秀衡は以下の返答を返しています。

秀衡
・中原兼実は自分から奥州に残りたいと言っている

・貢納金の相場は千両と定められているのに、3万両納めろというのはおかしい

挙兵について言及がないのは、なにも言い返さないのが得策だと考えたからでしょうか。

頼朝は秀衡を挑発して戦に結び付けたかったのでしょうが、秀衡はこんな風に、いずれも冷静にかわしているんですよね。

武士だからといって簡単に「戦だ戦だ!」とならない辺りに、当主としての器を感じさせられます。

源義経を匿い、滅亡へ


前述のように鎌倉方は奥州藤原氏の排除を急ぐも、戦に踏み込むには決め手が足りない状況にありました。

そこへ、頼朝としてはまたとないチャンスが巡ってくることとなります。

源平合戦における振る舞いが問題となり、鎌倉を追われる身となった源義経が、奥州藤原氏のもとへ逃げ込んだのです。

お尋ね者の義経を匿えば、鎌倉方から謀反者と断じられるのに、格好の口実となってしまいます。

しかし、秀衡は義経を撥ねつけることなく、奥州平泉へ受け入れるのです。

頼朝との合戦はもはや避けられないと考えたがゆえか。

もしくは、旧知の仲である義経を見殺しにすることはできないと考えたのかもしれません。

同年、秀衡は嫡男の泰衡、次男の国衡に対し

秀衡
義経を主君として、頼朝に対抗しうる戦備を整えるように

と遺言を残して病没してしまいます。

結局、新しく当主となった泰衡は、鎌倉方の圧力に耐えかねて義経を誅殺。

しかし、頼朝の望みは奥州藤原氏を滅ぼすことのみで、義経を匿った罪が許されることもありませんでした。

こうして、源氏や平氏と並んで圧倒的な権勢を誇った奥州藤原氏は、鎌倉時代の到来とともに滅亡を迎えるのです。

 

きょうのまとめ

俘囚という低い地位から富を見出し、巨大勢力へと育っていった奥州藤原氏。

その当主・藤原秀衡は、政治の天才である源頼朝をも煩わせるほどの器量をもった人物でした。

最後に今回のまとめです。

① 奥州藤原氏は蝦夷のうち、朝廷配下に下った俘囚の末裔

② 奥州藤原氏の最盛期を担った

③ 源頼朝は奥州藤原氏を排除すべく、挑発する内容の書状を何度も送っが都度、冷静な対応で衝突を避けようとした

④ 謀反人として逃亡してきた源義経を受け入れ、義経を主君として戦うよう息子たちに託し、病没

その動向を鑑みるに、秀衡がこの時代でも突出した能力をもっていたことは明らかです。

協力して政治を行えれば、頼朝としても心強い味方になったのでは…などと感じてしまいますが、

武士の社会はそう単純なものではないのでしょうね。

【参考文献】
『奥州における御館藤原氏』喜田貞吉
『源頼朝革命史』土居洋三
Wikipedia/藤原秀衡

 
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