鎌倉幕府創成期において、将軍・源頼朝から特に重用されていた御家人
三浦義澄。
武功はそれほど残っていないものの、冷静な判断力や忠義心を伺わせる逸話が多数あり、頼朝から頼りにされたことも頷ける人物です。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、佐藤B作さんに配役が決定。
義澄がいったいどんな人だったのか、放送に先駆けてしっかりチェックしておきましょう。
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三浦義澄はどんな人?
- 出身地:相模国三浦荘(現・横須賀市)
- 生年月日:1127年
- 死亡年月日:1200年2月9日(享年74歳)
- 源平合戦で源頼朝に従い、戦った幕府御家人。頼朝からの信任が厚く、征夷大将軍就任の際、代理で辞令を受け取る役目も果たした。
三浦義澄 年表
1127年(1歳)相模国三浦荘の役人・三浦義明の次男として生まれる。
1159年(33歳)源義朝に従い「平治の乱」に従軍。平家方に敗れる。
1164年(38歳)兄義宗が死没。三浦家の当主となる。
1180年(54歳)平氏討伐を掲げた源頼朝に従うべく挙兵。相模国衣笠城にて、平家方の武将・畠山重忠と戦う。安房国(現・千葉県南部)で頼朝と合流し、鎌倉入りを果たした。
1184~1185年(58~59歳)源平合戦に鎌倉方として従軍。「一ノ谷の戦い」「壇ノ浦の戦い」などで武功を挙げる。
1189年(63歳)奥州合戦に従軍。
1190年(64歳)頼朝の上洛に随行する。頼朝が右近衛大将に任じられ、拝賀の列に参加。自身も右兵衛尉の官職を与えられるも、これを息子の義村に譲る。
1191年(65歳)御所の新造に伴い、大御厩造営奉行を務める。
1192年(66歳)頼朝が征夷大将軍に任じられた際、朝廷より辞令を受け取る役目を果たす。
1199年(73歳)二代将軍・源頼家を補佐するため、御家人による「十三人の合議制」が設置され、その一員となる。
1200年(74歳)御家人・梶原景時を非難する連判状に署名し、景時を鎌倉から追放。その後すぐに病没した。
三浦義澄の生涯
三浦義澄の生涯にまつわるエピソードを紹介します。
三浦氏とは
1127年、三浦義澄は相模国三浦荘を治める役人・三浦義明の次男として生まれます。
三浦氏は桓武天皇の子孫で、平安時代中期に関東地方へ下向した坂東八平氏の支流。
前九年の役で源頼義に従って戦った一族で、その武功から三浦荘を賜って以来、源氏に仕えてきました。
一族の出身者が揃って名前に用いる「義」の字は、源頼朝の高祖父・源義家から下されたものだといいます。
平治の乱
1159年に勃発した「平治の乱」では、源氏の棟梁・源義朝に従い、義澄も京都へ従軍しました。
このときは義朝の長男・義平の兵として戦い、平重盛を退ける活躍を見せています。
しかし結局、軍配は平家方へ上がることに。
以降、源氏の勢力が排斥された朝廷では、平氏が権勢を誇るようになります。
この間、役人である義澄も大番役を命じられ、何度も上洛しています。
(※大番役…京都の警備を担う役。各地の役人が交代制で行う)
心の底では源氏に忠誠を誓っていた義澄は、どんな気持ちで役にあたっていたのでしょうか。
源頼朝の挙兵に従う
1180年になると、平氏と後白河法皇の対立により、法皇の第三皇子・以仁王が、全国の源氏に向けて平氏討伐の令旨を下します。
このとき、義澄は京都で大番役を務めており、以仁王と平氏の戦が起こったために、予定より帰国が遅れたという話です。
そして、戦が鎮まり、帰国を許された義澄が真っ先に向かった先は、平治の乱で配流となった源頼朝が住む伊豆国でした。
密かに頼朝と通じた義澄は、このあとの挙兵の手はずを相談したのではないかとされています。
8月になり、頼朝が挙兵すると、義澄もこれに従うべく三浦荘を出発。
しかし、道中の酒匂川が氾濫していたことで進軍が遅れ、合流できず。
「石橋山の戦い」で頼朝が敗れたことを知ると、三浦荘へ引き返しました。
その退路で平家方の畠山重忠と合戦になり、居城の衣笠城まで、畠山が攻め込んでくる事態になります。
義澄は城を捨てて逃げることを父義明に相談するも、義明は自分は城に残ると主張。
「私はもう老い先短い身だ。この場は引き受けるから、お前たちは逃げ延びて源氏を支えてくれ」
と、義澄たちを送り出したといいます。
このあと、義澄は安房国(現・千葉県南部)へ渡り、頼朝と合流。
義澄はこの地にも所領をもっていたため、伏兵を用いて対抗勢力を退ける活躍をしたといいます。
鎌倉入り後の逸話
安房国で力をつけた頼朝は、以後鎌倉を拠点とし、その勢力を拡大。
義澄もこのころに、三浦の所領を安堵する意味を込めた「三浦介」の呼称を与えられました。
そしてこの時期の逸話には、義澄の苦心を感じさせるものがいくつかあります。
父の仇を許す
鎌倉入りを果たしてすぐのころ、衣笠城で刃を交えた畠山重忠が源氏に下ることとなりました。
義澄としては父の仇であり、とても許すことはできない相手です。
しかし、その心中を察した頼朝は、
といい、義澄は以降、恨みを持ち出すことはなかったといいます。
義父の自刃
頼朝が石橋山の戦いで平家方と対峙した際、伊豆の豪族である伊藤祐親も、頼朝の背後を狙う形で進軍しました。
実のところ祐親は義澄の正妻の父で、義父にあたります。
祐親が鎌倉方に捕えられた際、親族ゆえ、義澄はその身柄を預かることに。
そして頼朝の妻・北条政子が懐妊した折、義澄は慶事に則り、祐親の赦免を申し出ました。
頼朝はこれを許すのですが、なんと祐親は赦免を受け入れずに自刃してしまいます。
頼朝に刃を向けたことはもちろん、祐親は以前、自身の娘と頼朝のあいだにできた子を殺めたことがあったのだとか。
祐親としては、たとえ頼朝が許したとしても、決して許されていい立場ではないという思いだったのでしょうね。
鎌倉幕府の創成というドラマの陰で、義澄にはこのような親族を巡る波乱が幾度も訪れました。
きっと涙を呑むような思いで、この時期を過ごしていたのではないでしょうか。
源平合戦での活躍
源平合戦において義澄は、頼朝の代官として派遣された源範頼に従いました。
なかでも目立った逸話が残っているのは、「壇ノ浦の戦い」です。
このとき、範頼軍は九州方面の平家方へ侵攻を進めており、義澄は周防国(現・山口県東部)で待機することに。
義澄は前線で戦うことを望んだといいますが、
「後方の警備もまた、信頼に足る者にしか任せられない」
と、範頼に説得され、その任に就きました。
するとここへ、「屋島の戦い」で讃岐国(現・香川県)の平家方を追い詰めた源義経がやってきます。
義経は義澄を案内役に命じ、最終局面の舞台となる壇ノ浦へ向かうことに。
戦いに先駆けては、義経と軍奉行の梶原景時がいさかいを起こし、義澄がこれを仲裁したという話が残っています。
畠山重忠への恨みを抑えた件といい、義澄の冷静な人となりが垣間見えますね。
鎌倉幕府御家人として
戦以外での、御家人としての義澄の動向にも、興味深い逸話がいくつも残っています。
椀飯
義澄は鎌倉入り以降、椀飯という役を何度も買って出ています。
椀飯というのは、主君に料理を振舞う接待役のこと。
このころの武士には、重用されている家臣がその役を担うしきたりがあったのです。
印象深いのは1881年、頼朝が避暑のために三浦荘を訪れたときのこと。
このとき、義澄は一族総出で頼朝をもてなし、土産物として名馬・髪不撫を贈りました。
髪不撫は義澄自身が愛用した馬で、この馬で向かった戦には負けたことがないという話。
いかにも武士らしい忠誠心が表れた贈り物ですね。
政治的な働き
政治的な面でいえば、相模国の守護を務めたほか、頼朝が重要な儀式に赴いた際には何度となく随行しています。
特筆すべきは1192年、朝廷が頼朝を征夷大将軍に任じた際、義澄が代理でその辞令を受け取ったことでしょう。
頼朝はこのとき、比企能員や、和田宗実ら重臣を義澄に従わせていました。
義澄がその代表とされたことが、なによりの信任の表れとされているのです。
このほか、頼朝が上洛した際、御家人のうち10人に朝廷から官職が下されることになり、義澄はそのひとりに選ばれています。
このとき、義澄はその栄誉を息子の義村に譲っているんですよね。
こういった謙虚さも、頼朝に好かれていた一因だったのかもしれません。
頼朝の没後
1199年に頼朝が没すると、二代将軍に嫡男の頼家が就任しました。
しかし、頼家はまだ年が若かったため、その職務を補佐する目的から「13人の合議制」という仕組みが作られます。
これは各国から寄せられる訴訟問題を扱う際、重臣13人で合議したうえで将軍の判断を促すというもの。
義澄もその一員として名を連ねています。
翌年、同じく合議制の一員だった梶原景時が幕府を追放される「梶原景時の変」が勃発。
景時は将軍に対し、御家人の悪評をたびたび吹聴しており、恨みを買ったがゆえのことでした。
このとき、景時を追求する連判状に、義澄も署名しています。
そしてこのあとすぐ、義澄も病没。
せっかくできた13人の合議制は、早々に瓦解することとなったのです。
きょうのまとめ
私情で苦心した部分がいくつもありながら、三浦義澄の行動には、源氏の再興を念頭に置いていることが一貫して表れています。
源頼朝の配下となった御家人のなかで、「忠臣」という言葉が一番似合う人ではないでしょうか。
最後に今回のまとめ。
① 源平合戦では源範頼軍に従い、周防国で後方警備。壇ノ浦の戦いに際し、源義経を案内したほか、義経と梶原景時の対立を仲裁
② 頼朝の征夷大将軍就任の際、辞令を受け取る役に任じられるなど、頼朝からの信頼が厚かった
③ 「13人の合議制」の一員。二代将軍頼家を支えた
大河ドラマでの描かれ方にも期待がかかります!
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