「中村党」という武士集団のことをご存知でしょうか。
板東平氏子孫として相模国で力を持っていた中村氏のうち、土肥・土屋一族を中心にした相模武士の集団で、源頼朝の挙兵に協力しました。
その中核で活躍した土肥実平とはどんな人物だったでしょうか。
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土肥実平年表はどんな人?
- 出身地:相模国足下郡土肥郷(神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)
- 生年月日:不詳
- 死亡年月日:1191年11月25日(諸説あり)
- 桓武平氏の子孫で有力豪族。相模国の実力者として中村党を率い、源頼朝の挙兵時から諸戦で活躍して頼朝からの信任も厚かった。土肥氏そして戦国大名小早川氏の祖先
土肥実平年表
西暦(年齢) *生年不明のため年齢未詳。1191年死亡説を採用
1180年 源頼朝の挙兵に嫡男・土肥遠平、中村党を率いて参陣
8月、石橋の戦いで頼朝と共に敗走
10月、富士川の戦いに従軍
1184年
1月、源義仲討伐(宇治川の戦い)に参加
2月、一ノ谷の戦いで源義経軍に従軍し、平氏軍を破る。備前・備中・備後の守護となる
1185年 壇ノ浦の戦い。長門国と周防国の守護となる
1189年 奥州合戦に参加。源頼朝上洛の際の随兵の1人となる
1191年 11月25日死去(没年については諸説あり)
土肥実平の生涯
土肥実平は、平安末期から鎌倉時代初め頃に活躍した武将です。
源頼朝の挙兵と再起を支える
土肥実平は、桓武平氏の平良文系の子孫とされる有力豪族の中村党の一族、中村宗平の次男として誕生。
相模国の土肥鄕(神奈川県足柄下郡湯河原町・真鶴町)を本拠とした土肥氏の祖です。
また早川荘も治めたので、小早川氏の祖ともされています。
土肥氏は相模国南西エリアで「中村党」と呼ばれる武士団を形勢しており、実平は相模・伊豆の武士社会における実力者でした。
1180年、打倒平家を目標に源頼朝が北条時政らと共に挙兵。
土肥実平も、嫡男の遠平を含む中村党を率いて頼朝軍に加わりました。
源氏系の有力武士団らが頼朝軍に加わるか否かで内部分裂する中、中村党は一致団結し頼朝を支え、高く評価された存在でした。
鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』には、頼朝の挙兵最初の戦いである山木兼隆宅襲撃の時から実平の名前が見られています。
山木宅の襲撃に成功した後、頼朝は実平の屋敷にて作戦を練り、三浦氏との合流を図ったのです。
8月の石橋山の戦いで敗走したときには、頼朝の側に付き従った7、8騎の中には実平も含まれており、2人の間には強い信頼関係があったとみられます。
敗北した頼朝が箱根山で自害を覚悟した際に、自害の作法や決まりを伝授したのは、実平でした。
また、頼朝が隠れていた「しとどの窟」に食糧を運ぶなどの世話をしたのは、実平の妻だったと言われています。
その後、頼朝と共に逃亡したいとする仲間たちに対し、経験豊かな武士である実平は、成功のためにはあえて別行動すべきと諭したそうです。
その後実平は、頼朝を真鶴から安房国へと脱出に成功させ、頼朝の再起のきっかけを作ったのです。
頼朝の反撃と成功の陰に実平の姿
のち頼朝は千葉氏・上総氏らの協力もあって体制を立て直し、関東を制圧。
その間も実平は1180年11月の富士川の戦いなどに従軍して貢献します。
奥州から頼朝の元に馳せ参じた弟の源義経の取り次ぎや、頼朝に降伏した梶原景時の取りなしをおこなったのも実平でした。
その後も
・1184年2月 一ノ谷の戦い(平氏討伐)で源義経軍に従軍。7000騎を預かり、一の谷の西側から進軍
・その武功により備前・備中・備後国の守護に就任
・さらに梶原景時と共に源範頼の進軍を支援し、西国支配を任される
・1185年 壇ノ浦の戦い、のち長門・周防国の守護となり居館を持つ
・1189年 奥州合戦(奥州藤原氏討伐)に参加
・1190年 源頼朝上洛の際の随兵7人のうちの1人として供奉
などの活躍の記録は、頼朝からの信頼度の高さを裏付けます。
明確でない実平の没年
しかし、1191年の『吾妻鏡』にある記録を最後に、実平に関する公の記述は史料から見られなくなっており、この頃に亡くなった可能性はあります。
生年が明確にわかっていない土肥実平ですが、没年についても1191年11月25日に亡くなったという記録(沼田小早川家系図による)がある一方、
・1220年11月死去との記録(小早川家菩提寺・広島県米山寺の過去帳による)
などもあり、死亡の年月日はまだ明確にはなっていません。
土肥実平の息子・遠平
土肥実平と共に、彼の息子の遠平についてもご紹介しておきましょう。
嫡男の遠平も父親と同様に1180年の源頼朝の挙兵に参加し、主力として働きました。
父親の支配する相模国土肥鄕に隣接する早川荘をを治め、小早川村に館を築いて小早川氏を名乗りました。
神奈川県小田原市にある北条氏(後北条氏)の本拠地として有名な小田原城は、もともと土肥遠平(小早川遠平)の居館だったと言われます。
石橋山の戦いでは頼朝軍が敗退しましたが、頼朝が逃亡して安房国に脱出する際に、頼朝の妻であった北条政子に頼朝の無事を知らせたのは遠平です。
治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)にでは平家追討のため西国で活躍。
平家滅亡後には安芸国沼田荘の地頭となっています。
のち養子の小早川景平に沼田荘を相続させ、嫡男の維平には相模国の土肥家と所領を相続させました。
ところが、1213年の幕府内部での勢力争いである和田合戦では維平が和田方に味方して敗戦し、維平の2人の息子は討死。
維平も斬首となりました。
遠平はこの戦いには無関係だったと主張して、なんとか土肥と沼田の本領を維持し、のち沼田荘で亡くなったと伝わります。
土肥実平の墓所
土肥実平の墓所は、神奈川県の温泉町として知られる湯河原町にある曹洞宗の寺院、城願寺にあります。
土肥一族の墓は本堂の左手です。
宝筺印塔や五輪塔などさまざまな形をした墓石が並ぶ中、伝承によると、そのうちの3つ並んだ墓が、
・嫡男の遠平(左)
・遠平の妻(右)
とのこと。
境内にある土肥実平の手植えの木として伝わるビャクシンの木は、文部省の天然記念物に指定されている樹齢800年の大木です。
その他、源頼朝が腰かけたと伝わる石、源頼朝に従った七騎像が安置されている七騎堂もあります。
<土肥実平の墓所:城願寺 神奈川県足柄下郡湯河原町城堀252>
きょうのまとめ
土肥実平とは?簡単にまとめると
① 桓武平氏の子孫とされる有力豪族中村氏出身で、相模・伊豆エリアの実力者。土肥氏・小早川氏の祖
② 源頼朝挙兵時から協力・サポートした武士団「中村党」の中心人物
③ 幾多の戦いで活躍し、頼朝から厚く信任された武将
でした。
源頼朝挙兵時にはすでに相模の実力者として経験豊富だった土肥実平の存在は、頼朝にとってさぞかし心強いことだったことでしょう。
実平をはじめとして、頼朝は協力者に恵まれました。
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