大将軍として源平合戦に従軍し、鎌倉幕府の成立に貢献した武将
源範頼。
兄に頼朝、弟に義経という天才に挟まれたがゆえ、地味なイメージが拭えないこの人。
凡将、無能などと、ヒドイ言われようをすることも少なくありません。
しかし、こういった表現は、ともに戦った義経を英雄にするために誇張されている部分が大いにあります。
実際は全然無能じゃないし、頼朝から頼りにされていたのは、むしろ範頼のほうだったという話も…。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、迫田孝也さんに配役が決まり、どのように演じられるのかにも注目が集まります。
源範頼とはいったい、どんな人だったのでしょう?
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源範頼はどんな人?
- 出身地:遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)
- 生年月日:1150年
- 死亡年月日:1193年9月14日(享年44歳)
- 源平合戦で大将軍を任され、弟義経とともに平氏を滅亡に追い込んだ武将。兄頼朝に謀反の疑いをかけられ、悲劇の最期を辿った。
源範頼 年表
西暦(年齢)
1150年(1歳)源氏の棟梁・源義朝の六男として生まれる。
1161年(12歳)公卿・藤原範季の養子となる。
1180年(31歳)平氏討伐を掲げ兄頼朝が挙兵。遠江を中心に活動し始める。
1183年(34歳)叔父の志田義広が頼朝に反旗を翻し、鎌倉に進軍。頼朝の援軍として戦う(野木宮合戦)。
1184年(35歳)弟義経と協力し、「宇治・瀬田の戦い」で源義仲を、「一ノ谷の戦い」で平氏を退ける。九州征伐に向かうも、兵糧や兵船の不足に悩まされた。
1185年(36歳)「葦屋浦の戦い」で原田種直を破り、博多大宰府へ進軍。平氏の逃げ場をなくし、「壇ノ浦の戦い」で滅亡へ追い込む。
1189年(40歳)頼朝とともに「奥州合戦」に参戦。奥州藤原氏を滅ぼす。
1193年(44歳)頼朝から謀反の疑いをかけられ、伊豆へ配流となる。その後、消息不明。
源範頼の生涯
以下より、源範頼の生涯にまつわるエピソードを辿ります!
遊女の子として生まれ、有力公家の養子となる
源範頼が生まれたのは1150年ごろの話。
源氏の棟梁・源義朝の六男として、現在の静岡県にあたる遠江国蒲御厨で生まれました。
蒲冠者というふたつ名は、この出自によるものです。
母は遠江国池田宿の遊女。
義朝には不釣り合いな相手にも感じますが、この女性は池田宿の有力者の娘だったという話です。
池田宿は京都と関東の中間地点で勝手がよく、義朝はこの地に姻戚関係を築こうとしたと考えられています。
このあと義朝は平家との戦乱に身を賭していきますが、範頼は遠江で過ごしていたため、混乱に巻き込まれることもなかった様子。
その後、源氏の没落を契機に、公卿・藤原範季の養子となりました。
範季は朝廷でもかなりの重役で、関東の受領を任されるほどの人物。
そんな人がどうして、政権争いに敗れた義朝の息子を養子に迎えたのか、理由はわかっていません。
範頼という名前も、この範季から「範」の字を賜ったものでした。
こうして義朝の没後20年間、すっかりなりを潜めていた源氏の一族でしたが、1180年、後白河天皇の第三皇子・以仁王が平氏の専横にしびれを切らし、平氏討伐の令旨を出します。
これに応じた源頼朝が挙兵すると、弟である範頼は遠江周辺の有力者と協力関係を築き、来たる戦乱に備えました。
源平合戦での活躍
範頼が頼朝の配下として実際にはせ参じたのは、1183年の話。
常陸国(現・茨城県)で権勢をほこっていた叔父の志田義広が、頼朝に反旗を翻して鎌倉に攻め寄せた際のことでした。
翌年には平氏討伐の大将軍に任じられ、上洛。
弟義経の活躍ばかりがもてはやされますが、源平合戦における軍の取りまとめ役は、実は義経ではなく、範頼です。
義経と対比して無能とされることの多い範頼。
しかし一連の戦いを見ても、範頼がいなければ源氏の勝利は成し得なかったことが読み取れます。
「一ノ谷の戦い」(vs平氏)
いずれの戦いにおいても、範頼が3万の大軍を率いて敵を陽動。
1万の軍を率いた義経が背後から奇襲をかけるという作戦が用いられました。
一ノ谷の戦いで義経が、誰しもが降りるのを躊躇した断崖絶壁を駆け下り、奇襲を成功させた話は有名ですよね。
この点に関して頼朝はむしろ、義経のような人材を動かし、戦況をうまく運んだ範頼のほうを評価していたとする説もあるのです。
続く九州征伐では、兵糧や兵船が足りず足止めを食らっていますが、これはそもそも、準備が十分でないうちに、頼朝が出陣を命じたためだったとか。
多くの場合、範頼の失態のように描かれていますが、仕方のないことだった可能性が高いのです。
頼朝から救援物資が届いたのちには、関東から連れて来た武士と地方の豪族をまとめ、無事に九州への進軍を成功させています。
「屋島の戦い」における義経の奇襲作戦もそうですが、範頼がこのようにして九州への逃げ場を奪ったことも、平氏を滅亡へ追い込む大きな要因となりました。
こうして1185年3月24日、「壇ノ浦の戦い」をもって平氏は滅亡。
源平合戦における範頼の働きは、決して凡将、無能とけなされるものではないことがわかりますね。
鎌倉幕府御家人として
源平合戦が終結すると、範頼はそのまま九州へ残り、平氏の残党の処罰など、戦後処理にあたっています。
範頼は頼朝に忠実であり続け、敵兵の処分をめぐっても自分だけでは判断せず、常に指示を仰いだという話。
対して、義経は戦術の才能こそあったものの、このあたりの配慮にかけていたようで…
敵兵を勝手に処分したり、頼朝の許可を得ずに朝廷から官職を賜ってしまったり。
挙句は頼朝と対立し、追討されるハメに。
範頼がとにかく従順だったため、義経の独断専行がより強調されることになったとされています。
このほか、範頼は源平合戦の戦功から三河国(愛知県東部)の国司を務めました。
1190年に頼朝が大納言の官職を賜った際には、祝賀の行列で先導役を担っており、ここでも絶対的な信頼を得ていることがわかります。
このあとに波乱が待っていることを、誰が予想できたでしょうか…。
謀反の疑いをかけれら島流しに
1193年5月、頼朝は「富士の巻狩り」というイベントを行います。
富士山の裾野を舞台に、御家人を集めて盛大に狩りを行い、幕府の権威を示そうとしたこの行事。
その最中でなんと、頼朝が重用していた御家人・工藤祐経が、先代からの相続争いで揉めていた曾我兄弟によって討たれてしまいます。
この噂に尾ひれがつき、
「騒動の最中、頼朝も討たれてしまった」
と、誤った情報が鎌倉へと伝わりました。
すると頼朝の正室・北条政子は、夫が心配で気が気じゃありません。
これに対して、範頼は
「鎌倉には私がおりますから、案ずることはありません」
と、政子を安心させようとしたとのこと。
恐らく
「騒動で頼朝の帰りが遅れても、鎌倉は自分が守るから大丈夫」
という意図で言ったのでしょうが、あろうことか、政子から範頼の言動を伝え聞いた頼朝は激怒。
と、謀反の疑いをかけるのです。
焦った範頼は弁明のため、忠誠を誓う書状を送りますが、そのなかで「源範頼」と名乗っているのを見て、頼朝はさらに激怒。
と、もはや難癖のような理由で、返事も出さずに無視してしまいます。
返事が来ずに困った範頼は家臣の当麻太郎を送り込み、頼朝の様子を探ろうとしますが、これも逆効果。
当麻は頼朝の邸宅に潜入するも捕まってしまい、範頼にはもはや、弁明の余地がなくなってしまうのです。
わざわざ忍び込むようなことをしておいて、謀反のつもりはないというのは無理がある…という話ですよね。
範頼は伊豆へ配流され、修禅寺にて幽閉されることに。
このあと、『保歴間記』などではすぐに誅殺されたとされています。
しかし実際のところ、その消息はわかっていません。
範頼は伊豆を抜け出した逃げ延びていた?
通説では修禅寺で没したはずの範頼ですが、実は生き延びていたとされる伝承が各地に残っています。
(この地で範頼は吉見御所と呼ばれ、現在の「吉見大字御所」という地名に反映されている)
・神奈川県横須賀市の追浜へ逃れた
(追浜という地名が、鎌倉から追われてきたことを表している。この地に伝わる「蒲谷」という苗字は、蒲冠者である範頼から賜ったもの)
・埼玉県北本市石戸宿へ逃れた
(この地に咲いている日本五大桜のひとつ「蒲ザクラ」は、範頼が埋めたもの)
などなど。
どれもそれらしい理由が添えられているんですよね。
範頼はひょっとすると一ヵ所に留まることはせず、関東地方をさまざまに渡り歩いていたのかも?
きょうのまとめ
頼朝や義経に比べ、ちょっぴり影の薄い源範頼。
しかしその実態を辿ると、鎌倉幕府の成立になくてはならない活躍をしており、かなり優秀な武将であることがわかります。
最後に今回のまとめ。
① 源範頼は源義朝の六男。関東の受領を任された公卿・藤原範季に養子として育てられた。
② 源平合戦で、弟義経とともに平氏討伐を命じられる。義経が奇襲を仕掛ける一方、範頼は陽動役を担い、戦況を有利に導いた。
③ 幕府成立後は九州での戦後処理を任された。また、三河一国の国司にも任じられている。
④ 頼朝の帰りを案じる北条政子を安心させようとするも、誤解を招き、頼朝の将軍位を脅かそうとする謀反人とされてしまう。伊豆へ配流ののち、消息は不明。
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