幕末の攘夷派儒学者・吉田松陰。
(※攘夷…外国人を追い払う思想。外国との条約反対などを掲げる)
その弟子といえばまず、高杉晋作、久坂玄瑞の名が挙がります。
松陰がそのふたりと横並びにし、3人合わせて「三秀」と呼んだ人物がいました。
その名も吉田稔麿。
入江九一を合わせ、「松門四天王」と呼ばれたりもしますね。
その他の長州の英傑と比べて、なぜか名前を聞く機会が少ない稔麿。
いったいどんな人物だったのでしょう?
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吉田稔麿はどんな人?
- 出身地:長門国阿武郡萩町松本村(現・山口県萩市椿東)
- 生年月日:1841年3月16日
- 死亡年月日:1864年7月8日(享年24歳)
- 高杉晋作の奇兵隊創設時、屠勇隊を率いた長州藩士。吉田松陰に学び、攘夷活動に身を投じるなか、池田屋事件で非業の死を遂げた。
吉田稔麿 年表
西暦(年齢)
1841年(1歳)長州藩の足軽・吉田清内の嫡男として生まれる。
1848年(8歳)松下村塾に入門。吉田松陰の外叔父・久保五郎左衛門に学ぶ。
1856年(16歳)吉田松陰に学ぶ。
1858年(18歳)松陰の投獄に異議申し立てをしたところ、謹慎を命じられる。以後、親族を守るため松下村塾を離れる。
1860年(20歳)脱藩し、江戸に潜伏する。
1862年(22歳)脱藩の罪を許され帰国。松陰の慰霊祭に参加する。
1863年(23歳)高杉晋作の奇兵隊に参加。同年、屠勇隊を創設。朝陽丸事件にて、幕府の軍艦を占拠した奇兵隊士たちを鎮める。
1864年(24歳)池田屋事件で新選組の襲撃を受け討ち死にする。
吉田稔麿の生涯
1841年、吉田稔麿は、長州藩の足軽・吉田清内の嫡男として生まれました。
出生地の松本村は、吉田松陰の松下村塾でも知られる村。
特に稔麿の生家は、松陰が生まれた杉家のすぐ隣にあったといい、のちに師弟関係になるのも自然な流れだったようです。
吉田松陰に学ぶ
稔麿は8歳のころより、松下村塾へ入門。
といっても、このころの松下村塾は松陰が教鞭を執る前の塾で、松陰の外叔父・久保五郎左衛門によって主宰されていました。
教えることは普通の寺子屋と変わらず、稔麿はここでいわゆる「読み書きそろばん」を習ったといいます。
こののちの1856年、獄中から出て謹慎していた松陰が杉家にて講義を行うように。
評判を聞きつけた稔麿も講義を受け、ここで初めてふたりが相対することとなります。
この杉家での講義で多くの生徒が集まった結果、外叔父の塾と合併することになり、松陰は松下村塾の名を用い始めるのです。
松陰は、のちに松下村塾の講師となる儒学者・富永有隣と獄中で知り合っており、
有隣の赦免活動を巡っては、
・増野徳民
・松浦松洞
の3名が奔走したといいます。
ただ、このあと1858年のこと、幕府の日米修好通商条約締結などの動向に怒った松陰は、老中暗殺などの計画を企て、再度投獄されてしまうことに。
このとき稔麿は藩の重役に異議申し立てをしたところ、謹慎を命じられてしまいます。
以降は親族に害が及ぶのを避けるため松下村塾を離れますが、松陰が江戸に送られる際には、遠目にその姿を見送ったのだとか。
いずれにせよ、稔麿は松陰と過ごした日々のなかで、倒幕の意志を確固たるものとしていくのでした。
稔麿は幕府へのスパイになっていた?
松陰の刑死後、1860年になって稔麿は脱藩。
偽名を使って江戸へ潜伏し、旗本・妻木氏へ仕えました。
幕府と対立していた松陰の門下としては不可解な行動ですが、これはスパイ行為であったという説があります。
幕府に反旗を翻すそのときに向け、密かに情報収集に奔走していたのでしょうか。
1862年には藩へ戻り、脱藩の罪も許されました。
また、この年には松陰の慰霊祭にも参加しています。
朝陽丸事件を終息させる
1863年になると、海外諸国との条約を勝手に締結してしまった幕府が、朝廷から横浜港の鎖港など、攘夷の決行を命じられました。
そしてこの攘夷決行の期日を口実に、長州藩は朝廷の期待にいち早く応えようと、関門海峡を往来する外国船を砲撃し始めます。
しかし、フランス軍に壇ノ浦砲台、前田砲台を占拠されるなどの反撃に遭い、軍備の改変が急がれる局面に。
ここで高杉晋作によって創設されたのが奇兵隊でした。
稔麿はそのなかでも最下層の身分の者を集めた屠勇隊を創り、平民以下の扱いを受ける人たちに活躍の場を与えたといいます。
そんな最中、幕府の軍艦・朝陽丸が下関へとやってきました。
実のところ外国船砲撃に際し、長州藩には幕府から
「国の方針が決まらないうちから外国船を攻撃しては国辱となるので、みだりに砲撃を行わないように」
というお達しが届いていました。
それに加え、長州藩は小倉藩の領地である門司にも砲台を構えており、不法であるとして、小倉藩から幕府へと報告がいったのです。
こうして幕府は直接尋問にやってきたわけですが、朝陽丸の船内には小倉藩士が2名同行しており、これが問題になりました。
そう、長州藩士たちからしてみれば、「小倉藩のヤツら、チクりやがって!」となるわけです。
幕吏が尋問を行うために船を出たあと、奇兵隊士によって、朝陽丸に小倉藩士が乗っていることが確認されます。
するとなんと、奇兵隊士らは50~60人ほどの部隊で朝陽丸に斬りこみ、船を占拠してしまったのです。
最終的に騒動の鎮圧にあたったのが、稔麿でした。
興奮する奇兵隊士らを説得し、朝陽丸を無事江戸へ帰した稔麿。
いったいどんな風に説得してみせたのか気になりますよね。
池田屋事件
1863年、過激に攘夷活動をやりすぎた長州藩は「八月十八日の政変」で京都から追い出されてしまいます。
そこで1864年、長州藩をはじめとする攘夷派の志士は、秘密裏に京都へ集まり、幕府から政権を手繰り寄せるためのある作戦を決行しようと目論んでいました。
その内容がまたまた、とんどもなく過激なもので…
・禁裏御守衛総督の一橋慶喜、京都守護職の松平容保らを暗殺する
・孝明天皇を長州藩へ拉致する
という内容でした。
ところが、商人に扮していた浪士のひとりが新選組に捕えられ、計画が漏洩。
6月5日の深夜、攘夷志士らが旅館・池田屋で会合を開いるところに新選組が踏み込み、乱戦となります。
稔麿はここで命を落とすことになるのですが、その最期については諸説があって、はっきりしていません。
・池田屋から脱出し、長州藩邸に助けを求めたが、門が開かれずその場で自刃した
・新選組乱入の知らせを受け、藩邸から池田屋へ向かおうとしたが、道半ばで会津藩士に斬られた
などなど。
こうして稔麿は24歳の若さにして、その生涯を終えることとなります。
吉田稔麿の逸話
このほかにも、吉田稔麿には、その人となりを表すような興味深い逸話がいくつかあります。
松陰の思惑を察して煙管を折る
松下村塾の塾生は講義の合間にしばしば、教場でタバコを吸いながら談笑をしていたといいます。
そんなとき、決まって出てくるのが他人の陰口でした。
なんだか現代の飲み会や喫煙所でも見かけそうな場面で、ちょっとおもしろいですよね。
しかし、当の吉田松陰は陰口が嫌いで、書き物をするかたわら、
と、塾生たちの話を横目に見ていたといいます。
その空気をいち早く感じ取ったのが稔麿です。
稔麿は松陰の思惑を察すると、持っていた煙管を真っ二つにへし折り
と言い出しました。
タバコを吸って談笑すると陰口を言ってしまうなら、吸うのをやめればいい、というわけですね。
すると、ほかの塾生も意図を悟ったのか、
「じゃあ俺もやめる!」
と、言い出す者が次々に出てきたといいます。
松陰はこれを見て
と、喜んだという話です。
松陰が稔麿を優秀としたことにも納得がいく、鋭さの垣間見える逸話ですね。
山縣有朋とのやり取り
明治期に入ったのち、陸軍大将へと上り詰め、内閣総理大臣も務めた山縣有朋。
ただ、山縣の才能は松下村塾ではあまり評価されていなかったようで、稔麿とのあいだにもこんな逸話があります。
あるとき、山縣が塾を訪れると、稔麿が絵を描いていました。
描かれているものは
・烏帽子
・木刀
・棒
の4つ。
なんの共通点もないですよね。
案の定、山縣も不思議に思い、稔麿に絵の意図を尋ねると、返って来たのはこんな返事でした。
・烏帽子=久坂玄瑞(頭がよく弁が立つ)
・木刀=入江九一(木刀ぐらいには役に立つ)
・棒=山縣有朋(まだ何者でもない)
山縣の扱いがちょっと可哀想な気もしますが…
そのぐらい、塾生たちはなんでも言い合えるような仲だったのでしょう。
こちらは稔麿のちょっと皮肉っぽい一面が見える逸話でした。
きょうのまとめ
過激な攘夷活動に身を賭したがゆえ、24年という短い生涯を閉じることとなった吉田稔麿。
その実、吉田松陰から評価されているだけあって、あまり知られていないのが意外なほど、多くの活躍を見せていました。
最後に今回のまとめ。
① 吉田稔麿は、松下村塾で吉田松陰に学び、倒幕への意志を確立していく。塾にいたころは、儒学者・富岡有隣の赦免活動にも奔走した。
② 高杉晋作の奇兵隊創設に際しては、最下層の身分の者を集めた屠勇隊を創った。奇兵隊が幕府の軍艦を占拠した事件では、隊士たちを説得して事態を収拾させた。
③ 吉田松陰の志を継ぎ、天皇の擁立、幕府幹部の暗殺などを画策。計画実行前に新選組の襲撃を受け、討ち死にする(池田屋事件)。
生涯を通して、随所にその傑物ぶりが表れていました。
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