比企一族は、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝、2代将軍の頼家の乳母(貴人の母に代わって乳を飲ませ養育する女性)を務めた一族です。
初代と二代目の将軍とともに鎌倉幕府で活躍した比企氏の当主、比企能員とはどんな人物だったのでしょうか。
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比企能員はどんな人?
- 出身地:阿波国もしくは安房国
- 生年月日:不詳
- 死亡年月日:1203年9月2日(享年不詳)
- 鎌倉幕府の将軍家の乳母を務める一族の当主だったが、北条時政の謀略により一族もろとも滅ぼされた
比企能員年表
西暦*誕生年不明のため年齢不詳
1182年 比企能員と妻が、北条政子と源頼朝の嫡男・源頼家(幼名は万寿)の乳母父、乳母となった
1184年 5月、木曽義高討伐のため信濃国に出陣。8月、平氏追討に従軍
1185年 壇ノ浦の戦い後、上野国・信濃国守護となる
1189年 奥州合戦に北陸道大将軍として出陣
1190年 大河兼任の乱に東山道大将軍として出陣。右衛門尉に任ぜられる
1198年 娘の若狭局が頼家の側室となり、長男・一幡が誕生
1199年 源頼朝死没。鎌倉幕府の執政を行う十三人の合議制の一人に加えられる。梶原景時の一族の排斥に荷担
1203年 北条時政の屋敷に呼び出され謀殺され、一族も滅亡(比企能員の変)
比企能員の生涯
比企能員の前半生については明確ではありません。
阿波国に生まれたと言われますが(安房国説もあり)、両親もわかっていません。
比企氏の本拠地は武蔵国の比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)で、一族は下野と武蔵の国司をしていた藤原秀郷の末裔だと称しています。
将軍に信頼された重臣
比企能員は、もともと源頼朝の乳母の1人である比企尼の甥です。
比企尼は、夫の死後も頼朝に奉公、
能員はのちに彼女の養子となりました。
その関係から能員は頼朝の側近として初期より仕えた武将でした。
能員は妻とともに1182年に、頼朝の嫡男の源頼家の乳母父・乳母となり、頼家の養育・後見をする立場となっています。
1184年、木曽義仲(源義仲)が討たれた後には息子の木曽義高(源義高)討伐に信濃へ向かい、翌年の西国から九州への平氏追討にも従軍しています。
壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、生け捕った平氏の総大将・平宗盛が頼朝と御簾越しに対面した際には、頼朝の言葉を伝える役目を担ったのが能員でした。
1189年、奥州の藤原泰衡の追討では北陸道大将軍、さらに翌年泰衡の郎等だった大河兼任が起こした乱でも東山道大将軍として出陣しています。
頼朝の2度の上洛に同行したり、上野国・信濃国の守護などを勤めて頼朝の重臣として活躍した能員。
彼の娘の若狹局は、頼朝の嫡男である源頼家の側室となり、1198年に一幡を生んだために、比企氏は頼家の外戚(母方の親戚)となってますます力をつけました。
2代将軍源頼家の外戚・比企氏と北条氏との対立
1199年1月13日源頼朝が急逝し、26日には嫡男の源頼家が鎌倉幕府第2代将軍となりました。
当初は大江広元らの助けのもとに頼家が政務を執っていました。
しかし、3ヶ月後に頼家は将軍独裁ができないよう訴訟に関する裁決権を奪われてしまいます。
代わりに政務は幕府の「有力者13人の合議」によって遂行されることとなりました。
比企能員はその13名のメンバーの1人となっています。
頼朝亡きあと、鎌倉幕府の内部では権力を巡る争いがくすぶり始めます。
梶原景時は頼朝の生前から鎌倉幕府侍所別当として活躍し、2代将軍頼家にも忠実に仕える御家人たちの目付役でしたが、御家人たちに怨みを買い失脚。
比企能員は景時の排斥のための糾弾状の連判にも加わっていました。
景時がいなくなると、若い将軍頼家が頼ったのは彼の乳母父であり、舅でもある比企能員です。
しかし、北条政子の父親・北条時政はそれが面白くありません。
・北条氏・・・源頼家の母(北条政子)の外戚(実家)
比企氏と北条氏の対立が顕著になってきたのです。
能員、北条時政に謀殺される
1203年7月20日、将軍・源頼家が突如発病し、危篤状態となりました。
8月、北条時政や幕府の宿老たちは、
・頼家の弟・源実朝に、関西38ヵ国地頭職を相続させる
という分割相続を決定。
権限を2人に相続させ、頼家の息子に全てを与えないこと決定したのです。
この家督譲渡の件は将軍頼家にも比企氏にも知らせられていませんでした。
これは明らかに頼家の後継者として一幡を推す比企氏に対する実朝派の北条氏による挑発です。
能員は自分の義理の息子が全てを相続できないのを不満に思い、頼家に
「時政が実朝を擁立しようとする謀反を計画している!」
と訴えます。
憤慨した頼家は密かに能員と共に時政の追討を決定。
しかし、その密議の内容を立ち聞きした北条政子により計画が時政に知らされたのでした。
1203年9月2日、仏事を理由に北条時政の名越亭という屋敷に呼び出された比企能員は、屋敷で時政の配下の者に殺されてしまったのです。
能員の死を知った比企一族は、一幡の屋敷・小御所に籠城。
それを謀反だと判断した北条政子、つまり幕府は大軍を差し向け比企氏を追い詰めます。
まだ6歳と幼かった一幡も含めて皆が自害、焼死。
残った親族たちも全て殺害され、比企一族は消滅してしまいました。
「比企能員の変」のあらましは、以上のように鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』に記されました。
比企能員の変は北条氏による陰謀!?
さて、『吾妻鏡』とは北条氏が後年に編纂した史書です。
鎌倉幕府に関わる出来事を知るための貴重な史料として知られていますが、
北条氏にとって不都合な事実は伏せられている可能性を考慮する必要がありそうです。
「比企能員の変」については、別の記録によると詳細が食い違う点もあるのです。
鎌倉時代初期に天台宗僧侶の慈円によって書かれた史論書『愚管抄』によると、
「重病の頼家は出家し、将軍として持っていたもの全てを子の一幡に譲るつもりだった。
しかしそうなると、一幡の義理の父となる比企能員が大きな権力を握ってしまう。それを恐れた北条時政は、能員を呼び出して殺害。
小御所にいる一幡には逃亡されてしまうが、比企一族を滅亡させた。
11月には北条義時の配下の者が、一幡をも討取った」
となっています。
また、当時の貴族が残した日記によると
次の征夷大将軍に源実朝を任命するよう土御門天皇に要請していた
らしいのです。
つまり、北条氏側は使者を送り出した段階で、頼家や能員を殺害することをすでに計画していた可能性があるのです。
「能員が先に北条氏の征伐を計画していた」というのであれば、呼び出された彼が武装もしないで単身で北条時政の屋敷を訪れるのはいかにも不自然な行動です。
「比企能員の乱」とは、北条氏が力を持った能員たち比企一族を滅亡させるために、
「能員が謀反を企てた」という口実をでっちあげた北条氏による陰謀だったのかもしれません。
比企能員の墓所
比企能員の墓は、比企能員の乱で亡くなった一族の墓と共に、鎌倉の妙本寺にあります。
妙本寺の開基は、比企能員の末子で儒学者だった比企能本でした。
彼は、比企の乱の時にまだ幼く、京都にいたため生き延びることができた人物でした。
鎌倉で出会った日蓮聖人に帰依し、自分の屋敷を献上したのがこの妙本寺の始まりです。
境内の中を進むと、祖師堂にむかって右側に比企能員の乱で焼死した幼い一幡が残した袖を祀った一幡之君袖塚があります。
さらにその背後に比企能員を含めた比企一族の墓が四基の五輪塔となって祀られています。
<比企能員の墓所:長興山 妙本寺 比企能員公一族之墓 神奈川県鎌倉市大町1丁目15-1>
きょうのまとめ
比企能員とは?簡単にまとめると
① 鎌倉幕府初代将軍の源頼朝と2代将軍頼家に仕えた忠臣
② 第2代将軍・源頼家の舅であり頼家の息子・一幡の祖父
③ 鎌倉幕府の13人の合議制を行ったメンバーの1人
④ 北条時政に謀られ非業の最期を遂げた武将
でした。
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