大姫、と聞いて「ああ、あの人ね」とピンと来る人がどれほどいるでしょうか。
しかし、彼女の両親は日本史上でも超有名カップル、源頼朝と北条政子です。
ビッグカップルの間に生まれたお姫様・大姫とはどんな人物だったのでしょうか。
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大姫はどんな人?
- 出身地:伊豆
- 生年月日:1178年
- 死亡年月日:1197年7月14日(享年20歳)
- 源頼朝の娘として6歳の時に政略目的で木曽義仲の11歳の息子・木曽義高の許嫁となり、頼朝の命で義高を殺されると、失意のために長く病に陥り亡くなった
大姫年表
西暦(年齢)
1178年(1歳)誕生
1180年(3歳)父・源頼朝が挙兵、東国を制圧
1183年(6歳)名目上大姫の許婚となった木曽義仲の長男・義高が人質として鎌倉に送られる
1184年(7歳)木曽義仲が粟津にて敗死。義高が鎌倉の屋敷から脱走するが発見後誅殺され、大姫は病に伏す。
1186年(9歳)病気回復祈願で勝長寿院に参籠していた際、源頼朝の愛妾・静御前が舞を披露する
1194年(17歳)一条高能との縁談を拒絶
1197年(20歳)死没
大姫の生涯
大姫の両親は、源頼朝と北条政子。
彼女は日本史上非常に有名なカップルの第一子でした。
大姫の誕生と当時の情勢
1160年、平治の乱で敗れた源義朝の息子・源頼朝は伊豆の蛭が小島に流され、そこで北条政子と出会いました。
1178年、2人の間に初めて授かった子が大姫でした。
「大姫」とは、「貴人の長女」を意味する呼び方で、実名ではありません。
彼女の本名を「一幡」とする説もあるようです。
1180年に以仁王が平家打倒の令旨を出し、各地の源氏がそれに呼応して挙兵しました。
それらの中で関東を制圧した源頼朝と北陸を抑えた木曽義仲(源義仲)は、同じ源氏の従兄弟同士でありながらも、家同士の因縁と源氏内の影響力争いで関係が険悪化しました。
そこで両者は打倒平家の共通目的のために和睦を成立させます。
6歳の大姫の許婚は、11歳の木曽義高
1183年、6歳の大姫のもとに11歳の木曽義高(源義高)が送られてきました。
彼は木曽義仲の息子です。
義高は名目上は大姫の許婚として送られてきた、頼朝と義仲の間の和睦のための人質でした。
6歳と11歳という幼い2人の婚約はかなり強引と考えられます。
幼い大姫は、恋愛感情というよりも若武者の義高を純粋に慕っていたのかもしれません。
人質の身でありながら同時に大姫の婚約者である義高は、姫と共に幸せな日々を送っていたのです。
人質・義高の鎌倉脱走
ところが、1184年、義高の父・木曽義仲が、宇治川の戦いで頼朝が差し向けた源範頼・義経軍に敗戦し粟津で戦死。
父の死により、息子の義高に人質の価値がなくなると、源頼朝は将来の義高による自分への復讐を恐れ、彼の殺害を決意します。
しかし、この計画はあらかじめ大姫側に漏れており、大姫は1184年4月21日早朝、侍女たちの助けを借りて義高を鎌倉から脱走させました。
義高の同年配の側近・海野幸氏が義高の身代わりとなって時間稼ぎをする間、義高は彼の父親の本拠地であった信州を目指したのです。
義高暗殺の計画が事前に漏れた理由については2つの説があります。
2. 頼朝は身寄りのない12歳の少年を一方的に殺せば自分の外聞が悪いため、わざと計画を義高サイドに漏らすことで脱走を誘うことができれば、「謀反を企んでいる」ことを口実に殺せるから
もしも、頼朝が2.の理由でわざと計画を漏らしていたとすると、義高と大姫は、まんまと頼朝の策略に引っ掛かったわけでした。
義高の死
義高脱走が露見すると、怒った頼朝はすぐに義高に追っ手を差し向けました。
『吾妻鏡』(鎌倉幕府による公式な歴史書)に、
「姫公周章して魂を銷(消)しめたまふ」
(大姫はあわてふためき、魂が消えてしまいそうな様子だった)
とあるように大姫は驚き、ただただ義高が無事に逃げ切れることを祈り続けました。
しかし、脱走から5日後の4月26日に、武州・入間河原(現埼玉県入間川流域)にて義高は殺害されました。
頼朝の命に従って義高を討取った御家人・藤内光澄は、意気揚々と義高の首を鎌倉に持ち帰ります。
最愛の許婚を父の命令で惨殺され、その首を持ち帰られた7歳の幼い大姫は、ショックと悲しみで水も飲めないほど衰弱してしまいました。
それを見た大姫の母・北条政子は、激怒して夫の頼朝に猛烈な抗議をします。
そのため頼朝は、ただ彼の命令に従って義高を殺した忠実な藤内光澄を無残にも斬首しています。
そんなことで大姫の心の傷が癒えるわけもなく、彼女は病気になってしまいました。
源頼朝と北条政子は、義高の追善供養、加持祈祷などを行い、さらに、義高の最期の地である狭山の入間川のほとりに「清水冠者」とも呼ばれた彼を祀る清水八幡宮も建立したのです。
長引く大姫の病とその死
1194年、大姫に頼朝の甥・一条高能との縁談話が持ち上がりました。
しかし、大姫は「結婚するなら身投げする」と拒絶しています。
そこで、次に頼朝は大姫を後鳥羽天皇の妃にすることを計画。
1195年に東大寺の落慶供養を理由に頼朝が政子、大姫、そして頼家らを伴って上洛し、交渉に臨みますが、結局この計画は成功しませんでした。
義高の死以来10数年というものほとんど病に伏せる毎日だった大姫は、ついに1197年7月に死没しています。
大姫に関わった人々
ここでは、義高をはじめとする大姫と関わりを持った人々について紹介しましょう。
木曽義高(源義高/清水冠者)
義高の父・木曽義仲と大姫の父・源頼朝は従兄弟同士なので、義高と大姫は又従兄妹の関係となります。
義高の母親は義仲の愛人としても知られた巴御前だという話もありますが、確かなことは分かっていません。
義高が鎌倉を脱走する際、女房姿に変装をし大姫の侍女たちに囲まれるようにして屋敷を抜け出しました。
大姫が用意した馬は、ひずめに真綿が巻かれ足音が響かないように工夫されていたそうです。
義高が鎌倉から脱走する際の様子からは、いかに義高が大姫やその周辺の人々に愛されていたのかが感じられます。
彼らの願いも空しく殺された義高の享年は12でした。
海野幸氏
海野幸氏は、義高が頼朝の人質となる時に一緒に鎌倉にやってきた彼と同年の幼なじみであり、側近です。
義高脱走の際、彼が義高のフリをして寝床に入り、命を賭けて身代わりとなって脱走発覚までの時間を稼ぎました。
脱走補助が発覚した直後は捕らえられた幸氏ですが、のちに源頼朝はその彼の忠勤ぶりを称え、御家人として登用しています。
幸氏は頼朝や北条氏に仕え、弓の名手として活躍し、その後の多くの戦いにも出陣した鎌倉幕府の名武将に成長しました。
静御前
義高の死後2年ほど経った1186年5月、大姫は病気の平癒祈願のために勝長寿院にて10日間の参籠(一定期間社寺堂にこもって神仏に祈願すること)を行いました。
その最終日に、彼女は鎌倉にやって来ていた静御前と出会っています。
静御前とは、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させながらも、のちに謀反人として頼朝に追われた義経の愛妾です。
名白拍子(舞手)として知られた彼女が捕らえられ、鎌倉に召還されていた際、大姫を慰労するための舞いを披露したのです。
大姫は静御前の素晴らしい舞いを非常に喜びました。
恋しい義経と離ればなれとなった静御前は、大姫と北条政子による助命嘆願も空しく、義経との間にできた男児まで頼朝の命令で殺されています。
大姫と政子は彼女の立場に深く同情し、静御前が一人京へ戻る際には、多くの餞別の品を持たせて見送ったということです。
大姫と静御前。
お互いの似た境遇に感じ入るものがあったのかもしれません。
きょうのまとめ
大姫とは、
① 源頼朝と北条政子の初めての子だった
② 6歳で木曽義仲の息子である11歳の義高の許婚となった姫
③ 父・頼朝の命令で許婚の義高が殺され、それ以来彼を想い続けたまま病に伏せり20歳で亡くなった悲劇の女性
でした。
日本史上でトップランクの知名度を誇るスーパーカップル源頼朝と北条政子の娘でありながら、病と悲しみに占められた短い生涯を送った大姫。
許婚の木曽義高と過ごした幼くつたない幸せな時間はたったの1年でした。
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