大河ドラマ『青天を衝け』への登場が決まり、一躍注目を集めている
五代友厚。
なんといってもこの人…渋沢栄一と並ぶ日本経済の立役者です。
それぞれ関東圏、関西圏で活躍したことから「東の渋沢、西の五代」と呼ばれることもしばしば。
配役を務めるのは、2015年の連続テレビ小説『あさが来た』で、同じく五代役を務めたディーン・フジオカさん。
『青天を衝け』は渋沢栄一が主人公ということで、以前は描かれなかった、五代の実業家としての側面が描かれるのでは…と、期待されています。
生涯、500以上の企業設立に携わった栄一に対し、五代はどんな人物だったのか?
その生涯や功績に迫ります。
2021年大河ドラマ「青天を衝け」に登場する人物一覧についてはこちらをどうぞ。
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五代友厚はどんな人?
- 出身地:薩摩国鹿児島郡城ヶ谷(現・鹿児島市長田町)
- 生年月日:1836年2月12日
- 死亡年月日:1885年9月25日(享年49歳)
- 明治初期、関西圏における経済発展を担った実業家。幕末のヨーロッパ留学をきっかけに、日本に海外の仕組みを次々と導入していった。
五代友厚 年表
西暦(年齢)
1836年(1歳)薩摩国鹿児島郡城ヶ谷(現・鹿児島市長田町)にて、儒学者・五代秀堯の次男として生まれる。
1854年(19歳)薩摩藩の郡方書役となる。
1857年(22歳)長崎海軍伝習所へ出向し、オランダ士官より航海術を学ぶ。
1859年(24歳)江戸幕府が派遣した千歳丸で上海へ渡り、薩摩藩の汽船を購入する(密貿易)。
1862年(27歳)長崎にて、御船奉行副役となる。
1863年(28歳)薩英戦争にて、イギリス海軍の捕虜となる。脱出後、藩に戻れずしばし潜伏生活を強いられる。
1865年(30歳)留学生を率いてヨーロッパを歴訪。武器、紡績機器などを購入し、帰国する。
1866年(31歳)藩の会計係に就任。イギリス商人グラバーと共同で、小菅修船場を開設する。
1868年(33歳)戊辰戦争に参加後、明治政府にて参与・外国事務局判事となる。
1869年(34歳)通商・為替会社の設立に携わる。同年退任し、金銀分析所を開く。
1871年(36歳)鉱山経営を開始する。
1873年(38歳)鉱山事業の経営統括機関「弘成館」を設立。
1876年(41歳)朝陽館を設立し、藍の製造販売を行う。堂島米商会所の設立に携わる。
1878年(43歳)大阪株取引所を設立。大阪商法会議所を設立し、会長を務める。
1880年(45歳)大阪商業講習所(のちの大阪商科大学)、東京馬車鉄道を設立。
1881年(46歳)大阪製銅会社、関西貿易社を設立。
1884年(49歳)阪堺鉄道、神戸桟橋会社を設立。
1885年(49歳)東京・築地にて病没。
青年期
1836年、現在の鹿児島市長田町にて、五代友厚は生まれます。
父の秀堯は薩摩藩主・島津斉興に重用された儒学者で、鹿児島周辺の地理や名所を記した『三国名勝図会』の編纂を任されたことで有名。
そんな環境で育った五代には、14歳のころ、藩主から賜ったポルトガル製の世界地図の模写を父から頼まれ、精巧に書き写してみせたという逸話があります。
ただ、近年ではこの逸話が実は間違いであり、地図の模写は兄の徳夫が行ったという説が濃厚です。
しかし、五代がそういった海外の資料に接する機会を、幼少から得ていた可能性は高いでしょう。
このあとの彼の動向には、少なからず父の影響によるところもあるはずです。
五代が19歳のころに就いた郡方書役は、同じ薩摩藩出身の西郷隆盛も経験したことのある職。
農村を回って農業を視察したり、年貢の監査を行ったりする部署でした。
また22歳のころには、長崎海軍伝習所へ出向し、航海術や砲術などを、オランダ人士官から直に学びます。
このときには、勝海舟、榎本武揚といった幕府の要人とも親交を深めたという話。
家柄と才能から、武士として順調に出世していったことが見て取れます。
海外列強の力を痛感。富国強兵へ
幕末期、薩摩藩の国力、軍事力は全国の藩でも群を抜くレベルを誇っていました。
その勢いをもって長州藩とともに立ち上がり、倒幕へ向かって行くわけですが…
五代は、そんな薩摩藩にヨーロッパの文明を取り込み、その勢いをさらに後押しする役目を担っています。
薩英戦争でイギリスの捕虜に
1862年のこと、薩摩藩の大名行列をイギリス人が横切り、斬り捨てられてしまう「生麦事件」が勃発。
賠償金を求め、イギリスが薩摩藩へ乗り込んでくる事態に発展します。
このとき、御船奉行を務めていた五代は戦争になるのを避けるため、3隻の船を率いてイギリス艦隊に近づき、直談判に乗り出しました。
しかし、薩摩藩がなかなかいい返事をしないことを理由に、イギリスは船ごと五代らを捕縛してしまいます。
そのまま薩英戦争は幕を開け、薩摩藩は大打撃を受けることに。
ただ、意外なことにその勝敗は、引き分けに終わっているのです。
薩摩藩が予想外の軍事力を誇っていたこともそうですが、この結果は、五代の活躍によるところも大きいという話。
海戦では決着がつかないと見たイギリスの艦隊司令官は、このあと鹿児島に上陸しての陸戦も考えていました。
これに対して五代が、日本の武士の陸戦能力、国のためなら死をも恐れない覚悟の強さを説き
と、司令官に意見したというのです。
もしこのやり取りがなければ、薩英戦争はさらに泥沼化していたかも…?
ヨーロッパへの留学
薩英戦争のあと、五代はイギリス艦隊から無事解放されますが、
交渉に出て行ってみすみす捕虜にされてしまったとあって、藩からの処罰は免れないと見られていました。
そのため、藩へはすぐには戻れず、しばしの潜伏生活を余儀なくされてしまいます。
ただ、その間にも五代は、イギリスの戦い方を船上で目の当たりにした経験を活かし、藩への上申書を作成していました。
その内容は
・武器や紡績機器などをヨーロッパから買って帰る
というもの。
海外の技術を取り入れ、薩摩藩の富国強兵を促そうとしたのです。
五代の案は採用され、1865年、留学生と使節を含む計19名の「薩摩遣英使節団」がヨーロッパ各国を歴訪します。
上申書の通り、イギリスで武器や紡績機器などを調達し、フランスやベルギーでは、貿易商社の設立契約も行いました。
購入した紡績機器は帰国後に作られた「鹿児島紡績所」に導入され、同施設は日本で最初の洋式紡績工場に。
明治期に勃興した「富岡製糸場」にもその技術は受け継がれ、国内の産業の要となっていきました。
また、同時期にイギリス商人トーマス・グラバーと共同で設置した小菅修船場は、日本初の洋式修船場。
五代の施策で、薩摩藩内の産業が一気に隆盛を極めていったことがわかります。
薩摩藩のパリ万博出展
『青天を衝け』ではいったいどんな役回りを担うのかが気にかかる五代友厚。
実は史実でも意外なところで、渋沢栄一とつながりがあります。
1867年のパリ万博出展に際し、渋沢栄一が幕府から派遣されたのは有名な話。
その経験を活かし、栄一は明治以降、実業家として日本の産業に貢献していくこととなります。
このパリ万博に幕府が参加するきっかけを作ったのが、実は五代なのです。
五代はヨーロッパ留学を通してパリ万博の情報を入手しており、なんと幕府よりも先に、薩摩藩の出展を決めています。
当然、フランスから幕府への打診はそれよりも先に行われていました。
出展を決めあぐねているうちに薩摩藩が名乗りを上げ、
「薩摩が出展するって…?そんな状況で幕府が出展しなかったら、示しがつかないじゃないか!」
と、幕府が慌てて参加を決めた経緯があったのです。
こういった紆余曲折もあって、薩摩藩はヨーロッパにおいて、幕府にも引けを取らない組織であると認識されるにいたりました。
五代がパリ万博の情報を藩に持ち帰らなければ、幕府の万博参加もなく、渋沢栄一がヨーロッパへ渡ることもなかったかもしれませんね。
明治政府での活躍
明治期が訪れると五代はその手腕を買われ、新政府にて、参与・外国事務局判事という要職を任されることとなります。
大阪に配属された五代は、
・通商、為替会社の設立
・大阪の開市に伴う大阪港の整備
などを主に担いました。
まず「堺事件」「神戸事件」に関して。
この時期、外国人が開港地周辺に行動範囲を制限されていたことや、在日外国人と日本人の文化の行き違いがまだまだ残っており、トラブルに発展する例も多かったのです。
海外事情に精通していた五代が、その対応を任されたわけですね。
また、欧米にならった経済のシステムを反映させていったことも見逃せません。
通商会社は、貿易や国内の商品流通の管理を行う機関。
為替会社は預金や貸付など、今でいう銀行の役割を担っていました。
「大阪造幣寮」を設立したのも五代で、同施設にはイギリス商人グラバーの仲介で洋式の機器を導入。
この時期、貨幣の仕上がりにバラツキがあることが問題視されていましたが、五代の尽力で安定した造幣が可能になったのです。
明治期に突入し、大阪の経済は低迷期を迎えていましたが、
こうした五代の活躍により、すぐにまた、東京と対を成す中心地として栄えていくこととなるのです。
もはや、関西になくてはならない存在となった五代。
1869年に横浜への転勤を言い渡された際は、留任を望む役人151名の嘆願書が寄せられるほどだったのだとか。
実業家となり、大阪経済の中枢を担う
大阪の人たちにその働きぶりを切望された五代は、ここからまた思い切った行動に出ます。
横浜へ異動となった2ヶ月後に政府を辞し、実業家として大阪の経済を盛り上げていくことを決意するのです。
同年には、「金銀分析所」を設立。
貨幣の地金を分析し、造幣寮へ納める事業を担います。
1871年に鉱山事業に乗り出すと、奈良の天和銅山を皮切りに、数年で国内26箇所もの鉱山を開拓し、鉱山王の名を欲しいままにしました。
その鉱山事業を統括する「弘成館」が設立した折には、薩摩藩以来の友人である大久保利通をして
と言わしめています。
さて、五代がこれらの事業に従事したのは、なにより資金調達のため。
その資金力をもって彼が行ったのは、大阪のさらなる経済的発展を目指した諸機関の設立です。
・大阪商法会議所
・大阪商業講習所(のちの大阪商科大学)
・大阪製銅会社
・関西貿易会社
などなど。
このほか、神戸桟橋会社や阪堺鉄道など、港や交通機関を担う企業の設立にも携わりました。
五代の試みで新しかったのは、鴻池善右衛門や三井元之助といった財界の長を共同経営者として巻き込み、次々と事業を起こしていったこと。
一人ではできないことも、複数人の経営手腕や資金を寄せ集めることで実現させていったのです。
これは現代の株式会社の仕組みの先駆けともいわれています。
人生のすべてを国の発展に捧げたとは、読んで字のごとく。
これほどの成功者だったにも関わらず、五代は没後、莫大な借金を抱えていたことが判明しています。
きょうのまとめ
幕末から明治まで、国の発展のために走り続けた五代友厚。
イギリス船の捕虜となった折、五代は日本の武士がもつ「国のために死をも恐れない覚悟」を敵司令官に説きました。
こう見てみると、五代自身がもっともその覚悟を有している人物だったからこその発言だともとれます。
私利私欲は一切なく、その一挙手一投足はすべて国のため。
なにより周りの幸せを願う彼の気持ちが形となり、現代の日本まで続いているのですね。
最後に今回のまとめ。
① 高名な儒学者の家に生まれた五代友厚は、薩摩藩ですぐに重用されるようになった。長崎海軍伝習所などで、オランダ式の航海術や砲術を学んだ。
② 薩英戦争で捕虜になった経験を活かし、ヨーロッパへの留学生派遣を薩摩藩に進言。武器や紡績機器、産業技術などを持ち帰り、藩の隆盛を担った。
③ 明治政府では、外国事務局判事となり、関西圏の外国人問題や貿易、経済の仕組み作りに奔走した。
④ 実業家になると国内26箇所の鉱山を開拓し、莫大な資金を調達。その資金力をもって、関西の経済を担う諸機関の設立に尽力した。
大河ドラマでも、どのように対比が描かれるのか楽しみです。
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