江戸時代後期、水戸藩主・徳川斉昭の腹心となり、その革新的な藩政改革を支えた
藤田東湖。
幕末期、倒幕派の中心的思想となった尊王攘夷論の基礎を担った人でもあります。
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では渡辺いっけいさんに配役が決まり、一躍注目の人物に。
主人公の渋沢栄一にも、意外な影響を与えているといいますよ!
藤田東湖とはいったい、どんな人なのか。
その生涯に迫りましょう。
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藤田東湖はどんな人?
- 出身地:常陸国茨城郡水戸城下(現・水戸市三の丸)
- 生年月日:1806年5月4日
- 死亡年月日:1855年11月11日(享年50歳)
- 第9代水戸藩主・徳川斉昭の腹心として、藩政改革を支えた儒学者。尊王攘夷思想の基礎を築いた。
藤田東湖 年表
西暦(年齢)
1806年(1歳)常陸国茨城郡水戸城下(現・水戸市三の丸)にて、儒学者・藤田幽谷の次男として生まれる。
1827年(22歳)藤田家を相続。藩の進物番、「彰考館」の史料編集などを務め水戸学者としての地位を確立。
1829年~(24歳~)水戸藩にて郡奉行・通事・御用調役などを歴任。
1840年(35歳)第9代水戸藩主・徳川斉昭の腹心となり、藩政改革に携わる。
1844年(39歳)徳川斉昭の謹慎処分に伴い失脚し、禄を失う。謹慎中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』などを執筆。
1853年(48歳)幕府の海防防禦御用掛となり、海防参与の徳川斉昭を補佐。
1855年(50歳)「安政の大地震」で被災し、生涯を終える。
幼少期
1806年、藤田東湖は常陸国茨城郡水戸城下にて、儒学者・藤田幽谷の次男として生まれました。
藤田家では長男が幼くして亡くなったため、実質的には東湖が長男として育てられることとなります。
父・幽谷は自宅で私塾を主宰しており、ここで育った東湖も幼少から学問に慣れ親しんでいきました。
水戸学の大家の子として育つ
東湖の父・藤田幽谷は『正名論』という書籍を通し、幕末維新志士の根源的思想である「尊王論」をはじめて理論的に解説した人でした。
幽谷が尊王論をもちだしたのは、藩がひとつにまとまり、国力を高めていくために明確な指標が必要だったからです。
水戸藩はこの理論をもって、天皇の名のもとにまとまり、海外列強の脅威が迫る幕末の危機を乗り越えていこうとしました。
この教えを体系化したものを水戸学といい、水戸学を学んだ水戸藩士たちから尊王攘夷思想は広がっていくのです。
(※尊王攘夷思想…天皇への忠義のもと、外敵を追い払う考え方)
東湖も、幽谷が生み出したこの思想の影響を大いに受けて育っていきます。
剣術にも打ち込んだ
東湖は14歳のころ、剣豪・岡田十松に師事し、神道無念流の剣術を学んでいます。
このように東湖が武道を志したのも、外敵から国を守るためであり、尊王攘夷に基づく考えでした。
イギリスの捕鯨船が上陸したという知らせを聞くと、父の命を受けて討伐に向かったこともあります。
(結局、東湖が到着したとき、イギリス船はすでにいなくなっていたのですが…)
このように、東湖の軸となった尊王攘夷思想は、彼を文武両道の青年へと成長させていきます。
徳川斉昭の腹心となる
東湖は22歳のころ、家督を相続して知行200石の藩士となります。
そこから、父が総裁を務めた史料編纂所「彰考館」への勤務などを経て、水戸学の大家として認められるようになっていきました。
そして、さらなる出世のきっかけとなったのが、水戸藩主の後継者争いにて、徳川斉昭に協力したこと。
このとき斉昭が藩主となったことで、東湖は重役に取り立てられていくのです。
郡の行政を司る郡奉行や、今でいう検察官にあたる御用調役などを経て、斉昭の腹心に。
1840年からは斉昭のもと、大規模な藩政改革に踏み出していきます。
斉昭の行った藩政改革とは
徳川斉昭は水戸学を特に重視した藩主で、幕末を代表する過激な攘夷論者でもあります。
彼が行った藩政改革は、とにかく水戸藩の国力を高め、外敵に対抗する力をつけようというものでした。
具体的には…
・藩校「弘道館」を創設し、水戸学を推進する
・江戸に定住していた藩士たちを呼び戻し、水戸藩を拠点とさせる
などなど。
こうして水戸藩は尊王攘夷論のもと、一致団結していくのですが…。
問題となったのが、この改革に際した仏教弾圧でした。
斉昭は、宗教的対立が藩内に派閥を生むと考え、水戸藩の宗教施設を神社だけにしようとしました。
このとき行った仏教弾圧が、寺社や仏像を取り壊して大砲の材料にするなど、なかなかに過激なものだったのです。
斉昭はこれを咎められ、謹慎処分に。
腹心として改革を進めていた東湖も謹慎を命じられることになってしまいます。
謹慎が解かれたのは、そこから9年後の1853年のこと。
斉昭が幕府の海防参与となり、東湖も海防防禦御用掛として、斉昭を補佐する立場に返り咲くのです。
「安政の大地震」の悲劇
このようにして、東湖が学者として再び脚光を浴びようというそんなころ、予期せぬ悲劇が彼を襲います。
1855年、江戸にて1万人の死者を出す「安政の大地震」が発生。
このとき東湖は母親とふたりで江戸藩邸におり、家屋の下敷きになって亡くなってしまうのです。
東湖は一度外へ脱出したものの、母親が火の元を気にして家のなかへ戻り、そこへ天井の梁が落ちてきたのだといいます。
これを東湖が身を挺して庇い、母親は無事で済んだのです。
その勇姿を称えて後年には石碑が建てられ、今でも東京都文京区に「藤田東湖護母致命の処」という案内板が残されています。
なお、石碑は小石川後楽園に移されているようです。
<藤田東湖護母致命の処>
渋沢栄一も影響された東湖の水戸学
東湖は水戸学の大家ということもあって、藩政改革のなかでも特に弘道館の創設に尽力していました。
謹慎となってからも『弘道館記述義』などの著書を通じ、その教えを広める活動を続けています。
東湖は、『古事記』や『日本書紀』に見られる日本人ならではの道徳観を説き、その観点から尊王攘夷を推進しました。
歴史を振り返り、人々の天皇への忠義によって長く国が守られてきたことを教えの根拠としたのです。
父・幽谷の教えを、日本人にとって使命感の伴うものに昇華したわけですね。
東湖のこの教えは徳川斉昭の七男であり、のちに将軍となる徳川慶喜にも大きな影響を与えました。
そのため、慶喜の家臣である渋沢栄一も東湖を敬愛しており、弘道館で講演を行ったほか、東湖の書も大切に保管していたという話です。
栄一の思想の一端を担った人物ということで、大河ドラマでも取り沙汰されることとなったのでしょう。
きょうのまとめ
父・幽谷の跡を引き継ぎ、水戸藩に尊王攘夷の思想を根付かせた藤田東湖。
その勢いはやがて全国の諸藩を巻き込み、幕末の維新へと事を動かしていきました。
最後に今回のまとめです。
① 藤田東湖の父は、尊王論をはじめて理論的に解説した儒学者・藤田幽谷の嫡男。尊王攘夷の思想を軸に、文武両道に育っていった。
② 水戸藩主・徳川斉昭の腹心として尽力。藩校「弘道館」などで水戸学を説いた。
③ 最期は「安政の大地震」に被災し、落ちてきた天井の梁から母親を庇って亡くなった。その勇姿を称えた石碑が残されている。
④ 東湖の尊王攘夷論は、これまでの歴史を振り返り、日本人ならではの道徳観を加えたもの。徳川慶喜や渋沢栄一も影響を受けた。
多くの人が感銘を受けた東湖の教えは、維新の是非を抜きにしても、道徳観として優れたものでした。
だからこそ、明治維新に直接関わりのない渋沢栄一も彼を称えているのです。
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