初の統一中華王朝秦の時代末期に活躍し、後に漢王朝の高祖となった人物、
劉邦。
農民出身にして初代皇帝となった彼は、数々の伝説的なエピソードと共に知られています。
劉邦とは一体、どのような人物だったのでしょうか。
今回は、その生涯を功績やエピソードと共にご紹介していきます。
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劉邦はどんな人?
- 出身地:中国 楚 沛県郡豊県中陽里
- 生年月日:紀元前247年または紀元前256年
- 死亡年月日:紀元前195年(享年52歳または61歳)
- 前漢王朝の初代皇帝
劉邦 年表
紀元前(年齢)
247年または256年(0歳)沛県郡豊県中陽里で誕生。
209年(38歳または47歳)沛県の警察分署長から県令に就任。
208年(39歳または48歳)秦王朝に対する反乱軍として項羽らと共に戦う。
206年(41歳または50歳)楚漢戦争の開始。
203年(44歳または53歳)垓下の戦いで項羽に勝利する。
202年(45歳または54歳)前漢王朝の成立。初代皇帝に即位。
195年(52歳または61歳)戦場で負った致命傷がもとで死去。
劉邦の生涯
ここからは早速、劉邦の生涯について功績と共に辿っていきましょう。
役人から反乱分子へ
劉邦の名が中国史上に台頭するきっかけのひとつになったのは、陳勝・呉広の乱でした。
これは秦の始皇帝死後、その息子が統治を開始して間もなくに起きた一揆です。
厳しく容赦ない刑罰の下る秦の法律に苦しんだ農民や下級兵たちの反乱は、やがて中国大陸を巻き込む大規模なクーデターへと発展していきます。
この当時、劉邦は30代後半から40代後半の年齢に差し掛かっていました。
警察の分署長のような役職から「県令」という、彼のいた沛県の長官職に就任した頃です。
そしてある日の任務で働き盛りの男性を集めて秦の都に向かう際、都での過酷な労働と刑罰を恐れた多くの人々が道中に逃げ出したことで、劉邦は反乱軍に加わることを決意しました。
というのも秦の法律によれば、労働者が足りなくなった場合、その引率者である劉邦にも重い刑罰が待っていたからです。
こうして、秦の役人として生きてきた劉邦は、反乱軍のひとつの勢力の長となったのでした。
咸陽の陥落と左遷
沛公として立てられ一反乱軍の長となった劉邦でしたが、当初は2千~3千人の兵力とその規模は小さく、戦いは苦戦を強いられ敗戦することもしばしばありました。
しかしその後は5千~6千人といったように徐々に勢力を拡大させていきます。
そして劉邦は、中国が秦に統一される以前に楚という国の王だった人物の子孫を楚王に擁立し、反乱軍の頭領となった項梁の勢力下に入りました。
その後は項梁の甥である項羽の軍勢と共闘し、次々に秦の軍勢を打ち負かしていきました。
圧倒的な強さを誇る項羽の軍勢に対し、数でも質でも劣っていた劉邦の軍勢はやはり度々苦戦を強いられることにはなりましたが、遂には秦の都咸陽を攻め落とすことに成功します。
楚王の命令で別動隊として先に咸陽を目指していた劉邦には、その成果としてこの地の王の座が与えられるはずでした。
しかし実際には項羽によってその道は断たれます。
叔父亡き後に実質的な頭領となり、「西楚の覇王」を名乗った項羽が秦の王一族を皆殺しにして咸陽を焼き払ってしまいました。
そして各反乱軍の長達に領地分配をする際にも、不公平な内容によって各軍の不満は次第に高まっていきます。
咸陽を落とした功労者である劉邦には、同じ関中の地とはいえ、咸陽からは随分と離れた奥地にして辺境の地が与えられたのです。
当時は流刑者が送られる場所でもあったその漢の地に左遷された劉邦は、やがて項羽が楚王を暗殺したことをきっかけに、項羽に対する反乱軍を立ち上げるに至りました。
楚漢戦争と高祖
項羽に対する不満を募らせる軍は多く、やがて各地で再び反乱が起こります。
特に紀元前206年、劉邦の呼びかけによって起こった楚の項羽、漢の劉邦のその後の戦争のことを楚漢戦争と言います。
劉邦は当初、魏や趙などの国と50万以上からなる大規模な連合軍を率いて項羽に挑みました。
そして彭城の戦いでは、楚の都にある彭城を占拠することに成功しましたが、項羽率いるわずか3万の精兵に大敗してしまいます。
続く滎陽の戦いでも、劉邦は圧倒的な強さの項羽に歯が立ちませんでした。
しかし、唯一人心を集めることにおいて項羽に勝っていた劉邦は、次第に連合軍の力を高めていきました。
その後の紀元前203年、垓下の戦いにおいては遂に楚軍を追い詰めます。
そして最後は項羽の自害によって劉邦が勝利を収めたのです。
西楚の覇王を倒した劉邦は、多くの人々の支持を得て統一王朝の皇帝の座に即位。
こうして、一役人出身、元を辿れば農民の出である彼は、前漢王朝を興しその初代皇帝になったのでした。
後に劉邦は、漢の高祖とも呼ばれることになります。
劉邦にまつわるエピソードや伝説
ここでは、劉邦の人柄に迫るためにいくつかの伝説的なエピソードをご紹介していきます。
ヤクザな時代と人望
県令に就任し、運命の歯車が動き出すよりも前。
青年時代の劉邦は縁があって故郷沛県で役人をしていましたが、その仕事ぶりは熱心とは程遠いものでした。
酒好きの女好き、その豪快な性格は悪く言ってしまえば遊び人とも言えます。
読み書きもまともにできないままに大人になり、フラフラと遊び歩き、飲み屋ではツケを貯めることは当たり前でした。
しかし不思議なことに、根っからの親分肌だった劉邦の周囲にはいつも人が集まり、その人脈はやがて彼の財産となっていったのです。
「法三章」
咸陽を落とし、関中入りを果たした劉邦。
そこでの彼は、秦王の財宝や美しい女性たちに遊び人としての血が騒いだわけですが、部下に咎められてすぐにその手を引っ込めています。
また正式に降参の意を表明した秦王に対しては、部下が死刑を推したにも関わらずそれを抑えて許しています。
さらに彼は、関中の村落に住む住民に対して以下の法を宣言しました。
第二条 人を傷つければ処罰
第三条 物を盗めば処罰
劉邦が宣言したのはこの三条だけであり、後に「法三章」として後の中国における簡便な法律の下敷きになります。
従来の秦の法律が、ねちねちと細かくおまけに内容も苛烈であっただけに、関中の人々は大変に喜びました。
鴻門の会
部下を信頼して話を聞き入れ、その一方で自身の信念をしっかりと持ち、関中に暮らす人々のことを考えた法をつくる。
粗野な部分がある一方で、劉邦のこういった人柄はやはり人々の心を惹きつけました。
そして一度は関中をその支配下に置いた劉邦でしたが、反乱軍の総大将だった項羽には敵いませんでした。
関中の人々の願いもあり項羽の関中入りを一度は阻んだ劉邦でしたが、それに激怒した項羽によって彼は危うく殺されかけます。
しかしそれぞれの部下同士の働きかけもあり、なんとか大軍に攻め込まれずに済んだ劉邦。
項羽との和解の宴が催されました。
しかし実際にはこの宴の間中、劉邦は項羽の刺客に終始命を狙われていたのです。
それでも結局劉邦は、何とか無事に関中から脱出することに成功しました。
ちなみにこの宴の名は「鴻門の会」と呼ばれ、様々なところでその詳細なエピソードが語られています。
きょうのまとめ
今回は前漢の初代皇帝、劉邦の生涯について功績やエピソードと共にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、劉邦とはどのような人物だったのか簡単にまとめると
① 秦の時代末期に反乱軍として一勢力を率いた長。
② 秦の都を落とし、後に前漢王朝の初代皇帝となる。
③ ライバルは「西楚の覇王」項羽。
劉邦について見ていくうえで度々登場した項羽。
どちらもカリスマ的な存在であることには違いありませんが、その将来を分けたのは皮肉にも、一個人としての性格なのでした。
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