戦後の日本において、イギリス仕込みの流暢な英語と、持ち前の負けん気を武器に日本の先頭に立ち、GHQとの交渉にあたった
政治家・白洲次郎。
たとえ相手が連合国軍総司令官・マッカーサーであろうとも、ひるまずに怒鳴りつけた逸話が残っているほどの強固な姿勢に
「従順ならざる唯一の日本人」
の異名を付けられ、アメリカからも一目置かれている人物でした。
まさにシャイな日本人にちょっぴり足りない”主張”という部分をもち合わせた白洲次郎。
彼はいったいどんな人だったのでしょう。
今回はその生涯を通して、白洲の人物像に迫っていきましょう。
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白洲次郎はどんな人?
- 出身地:兵庫県武庫群精道村(現・兵庫県芦屋市)
- 生年月日:1902年2月17日
- 死亡年月日:1985年11月28日(享年83歳)
- 戦後、日本の先頭に立ちGHQとの交渉を行った政治家。東北電力の会長を務めるなど、実業家としても活躍した。
白洲次郎 年表
西暦(年齢)
1902年(1歳)兵庫県武庫群精道村(現・兵庫県芦屋市)にて、実業家の父・白洲文平と母・芳子の次男として生まれる。
1919年(18歳)旧制第一神戸中学校を卒業し、イギリス・ケンブリッジ大学に進学。西洋中世史、人類学を学ぶ。
1925年(24歳)ケンブリッジ大学を卒業。大学院へ進む。
1929年(28歳)父親の会社が倒産したことを理由に帰国。英字新聞を発刊していたジャパン・アドバタイザー社に就職し、記者となる。
1931年(30歳)ケンブリッジ時代の友人が経営するセール・フレイザー商会の取締役となる。
1937年(36歳)日本食糧工業(現・日本水産)の取締役になる。
1940年(39歳)東京都多摩郡鶴川村熊ヶ谷(現・町田市熊ヶ谷)の農家を購入し、農業を営むようになる。
1945年(44歳)外務大臣の吉田茂の要請で終戦連絡中央事務局に務め、GHQとの交渉に当たった。翌年、経済安定本部次長に就任する。
1949年(48歳)新設された貿易庁の長官に就任。商工省を改変し、通商産業省(現・経済産業省)を設立するなどの活躍を見せた。
1951年(50歳)アメリカとの平和条約締結のため、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として参加する。
1951~59年(50~58歳)東北電力の会長に就任。福島県只見川の水利権を獲得し、奥只見ダムの建設などに携わる。
1959年(58歳)東北電力会長を退任。ここから数々の企業の会長・役員を歴任する。
1982年(81歳)軽井沢ゴルフ倶楽部の理事に就任。
1985年(83歳)胃潰瘍と内臓疾患を患い入院。急性肺炎を併発して11月28日に死没。
白洲次郎の生涯
1902年、白洲次郎は兵庫県武庫群精道村(現・兵庫県芦屋市)にて、貿易商・白洲文平の次男として誕生します。
父・文平は三井銀行、大阪紡績(現・東洋紡)などを経たのち、綿貿易を成功させ、巨万の富を得た大富豪。
幼少の白洲は病弱で入院や手術を繰り返すなど恵まれない面もありましたが、家庭環境はもっぱら裕福で、学生時代はそれゆえ傲慢な振る舞いをすることが多かったといいます。
「野人」「オイリーボーイ」と呼ばれた神戸一中時代
1914年に白洲は名門・旧制神戸第一中学に入学。
しかし授業態度が悪く、このころは成績もよくなかったといいます。
父親がキリスト教系の神戸女学院の創立に関わっていた関係でネイティブの家庭教師を雇っており、西洋文化に興味津々だった白洲は、学校の授業中でも関係のない洋書を読みふけっていたのだとか。
また父親から莫大な額の小遣いを与えられていたり、アメリカ車を買い与えられたりしたため、一中時代は常に遊び歩いているような感じだったといいます。
その奔放な様子から、友人からは「野人」、また車が好きだったことから「オイリーボーイ」などというニックネームで呼ばれていました。
1919年にケンブリッジ大学へ進学してからも、レースに参加したり、愛車に乗ってジブラルタルまでのヨーロッパ旅行を堪能したりと、趣味に没頭する日々は続いていたようです。
政治家・白洲次郎の基礎となったケンブリッジ大学時代
ケンブリッジ大学に進んだ白洲は西洋中世史を専攻。
一方、それよりも彼に影響を与えたのはイギリス特有の紳士文化でした。
・プリンシプル:自分の行動の原則をもつこと
・ノブレス・オブリージュ:恵まれて生まれた人間は心して生きよ
など、白洲が生涯指標として掲げていく価値観はこのころに築かれたものです。
またこのころ、名門・ストラットフォード伯爵家のロバート・セシル・ビングとも知り合い、生涯交友を交わし続ける親友となっています。
このように、イギリスでの生活は白洲の基礎となり、このあと日本を背負ってアメリカとの交渉に挑む彼の気概を育てていきました。
帰国、結婚が政界につながるきっかけに
イギリス文化が肌に合うと感じた白洲は、卒業後も大学院へ進学。
そのままケンブリッジの教授にと考えていましたが、1928年に父親の貿易会社が倒産し、帰国を余儀なくされます。
帰国当初の白洲は一家を支えるため、英字新聞の記者をしながら、貿易会社や日本食糧工業の取締役も務め、かなり多忙な日々を送っていました。
理想から一気に現実に引き戻されたような感じですが、このころに妻・正子とも出会っているため、それもまた巡り合わせだったのでしょう。
正子夫人も海外文化に興味をもっていた人で、彼女は金融恐慌を理由に留学を断念した経緯があります。
近しい価値観をもっていた白洲とすぐに意気投合し、結婚にいたったようですね。
正子夫人は旧薩摩藩士の家系だった関係で、内大臣を務めた牧野伸顕とつながりがあり、その娘を嫁に貰っていた吉田茂と白洲の付き合いもこのころから始まっています。
また旧友である牛場友彦が近衛文麿首相の秘書を務めていた関係から、首相の参謀役も担っています。
流暢に英語が話せる白洲の能力はなにかと重宝されていました。
帰国して結婚したことが結果として、白洲が政界とのつながりを強くする大きなターニングポイントとなったわけですね。
敗戦や空襲を予期し、郊外で農業を始める
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、白洲はそれに合わせるかのごとく、東京郊外の多摩群鶴川村に農家を購入し、農業を営むようになります。
武蔵国と相模国の境目にあるという理由でこの農家は「武相荘」と名付けられました。
国の大事にもひるまず立ち向かえる白洲の性格を暗に表しているかのようなネーミングですね。
アメリカの動きを敏感に察知していた白洲は、日本が戦争に負けることも、東京が空襲に遭うことも予期していました。
そのため早々に疎開し、戦後は食糧難に陥るだろうという考えから、地域の人のレクチャーを受けつつ、やったこともない農業に挑戦し始めたのです。
また白洲が田舎で農業を始めた理由は単に疎開のためだけではなく、ここにもまたイギリス文化の影響がありました。
イギリスには、都心から離れた位置で政治を客観的に見守り、体制が崩れたときにそれを正すために駆け付ける「カントリー・ジェントルマン」という習慣があります。
白洲は第二次世界大戦の戦火を避けながら、またカントリー・ジェントルマンになることで国家を支えようと考えていたのです。
GHQとの交渉
カントリー・ジェントルマンを志した白洲は、1945年の終戦を受けると早速、外務大臣を務めていた吉田茂のもとへ駆け付けます。
このとき白洲は、新設された終戦連絡中央事務局の参与に就任し、GHQとの交渉を買って出ました。
日本国憲法の改正を巡っては、GHQの改正案と国務大臣・松本烝治の改正案の乖離を指摘し再考を促すなど、GHQの意向に真っ向から立ち向かいます。
平和条約の締結に際しても、大蔵大臣・池田勇人が
「米軍基地は残した状態で、いち早く日本を独立させたい」
と主張するのに対し、白洲は沖縄や小笠原諸島、基地の返還を求めています。
このとき、アメリカは1950年に勃発した朝鮮戦争のために日本の軍事力をあてにしており
「憲法では軍事力を放棄しろと言っておいて、自分たちの都合で軍備を増強させようとは何事か」
と、白洲が指摘する場面も。
このように相手国に対し、毅然とした態度で意見することが、カントリー・ジェントルマンとして政治を見守っていた白洲が、この国に足りないと感じていたものなのでしょうね。
このほか、政治家としては貿易庁長官を務め、汚職にまみれていた組織を改変。
通商産業省(現・経済産業省)を新設して輸出入を取り締まり、外貨を獲得して日本の経済を向上させることにも尽力しています。
東北電力の会長を務める
電力の安定した供給も、戦後の日本において早急な解決が求められていた問題のひとつでした。
1951年に政治家を引退した白洲は東北電力の会長となり、今度はこの国の電力問題に精力的に取り組んでいくことになります。
日本の電力はもともと、国の管理下にあった日本発送電株式会社が一挙に担っていましたが、電力の安定化が求められたことで、その管轄を9分割することに。
そのひとつを担ったのが東北電力でした。
東北電力での白洲の働きとしては、福島県の只見川の利水権を獲得し、ダムの建設を行ったことなどが挙げられます。
感心させられるのはこのときの、会長としての白洲の振る舞いです。
白洲は長靴にヘルメット、サングラス姿で毎日現場へ出向き、作業員ひとりひとりの様子を小まめに見回っていました。
作業員の慰労会が行われれば、ひとりずつお酌をして回る姿も見せています。
会社でも幹部になると、必然的に現場へ出向く機会は減ってしまうもの。
しかし白洲は常に部下ひとりひとりの状況を把握しようと、気を配り続けていたわけですね。
晩年の白洲次郎
東北電力の会長を退任したあとの白洲は、多くの企業の会長や役員などを歴任していますが、メインはもとの農業中心の生活に戻っていたようです。
また晩年は紳士の文化を取り入れた「軽井沢ゴルフ倶楽部」の運営にも夢中になります。
規則を厳しく設定し、守らなければ相手が総理大臣でも参加を拒否するなど、ここでも我の強さは健在です。
一方、東北電力の作業員に接していたときのように、ゴルフ場の従業員やキャディーさんにはいたって紳士な対応をしていたのだとか。
そんな感じで晩年まで精力的に活動し続けた白洲は、1985年のこと、胃潰瘍と内臓疾患を患い、入院先の病院にて急性肺炎を併発し、83歳でその生涯を終えることになります。
正子夫人との京都旅行から帰った直後のことだったといい、それもまた最期の良い思い出となったのではないでしょうか。
ちなみに白洲に関する情報は、彼自身が持っていた資料をこの晩年にすべて燃やしてしまったため、第三者によるもの以外、ほとんど残っていないといいます。
後世で功績を称えられるような、名誉的なものには一切興味がなかったのですね。
立つ鳥跡を濁さずというか…「自分は必要とされることをやっただけ」という振る舞いがなんともカッコイイです。
きょうのまとめ
イギリスへの留学で、自身の確固たる意見を示すことを学んだ白洲次郎。
日本を守ろうという意志が前面に表れたその姿は非常に頼もしいものでした。
東北電力時代の部下への対応も合わせて、総じて兄貴肌な人物像を感じさせられましたね。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 白洲次郎は留学先のケンブリッジ大学でイギリスの紳士文化を体感し、はっきりとした意志をもつ姿勢を確立していった。
② 憲法改正案に異論を唱える、講和会議で沖縄・小笠原諸島の返還を求めるなど、アメリカとの交渉ではとにかく強固な主張を貫いた。
③ 東北電力の会長として日本の電力供給の安定化に貢献。ダム建設では作業員ひとりひとりへ細やかな気配りを見せた。
戦後よりもずっと国際化の進んだ現代において、白洲次郎の生き様はお手本になる部分がたくさんありそうです。
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