日本の伝統芸能、能楽。
2008年にユネスコの無形文化遺産に登録されました。
その創始者として知られる観阿弥とはどんな人物だったのでしょうか。
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観阿弥はどんな人?
- 出身地:伊賀国
- 生年月日:1333年
- 死亡年月日:1384年5月19日(享年52歳)
- 南北朝時代から室町時代にかけての猿楽師で、能の創始者。息子の世阿弥とともに能を大成した
観阿弥年表
西暦(年齢)
1333年(1歳)伊賀に生まれる
1363年(31歳)世阿弥誕生。小波田で猿楽の座をたてた
1368年(36歳)猿楽に曲舞を取り入れるようになった
1374年(42歳)京都今熊野宮で、観世父子が能を演じ、将軍足利義満に認められる(1375年説あり)
1384年(52歳)駿河静岡浅間神社での演能ののち病没
観阿弥の生涯
まずは、観阿弥の生涯についてご紹介いたします。
誕生、猿楽から能楽へ
観阿弥は1333年に伊賀国(現在の三重県)に誕生しました。
出自の詳細は明らかになっていない部分も多くありますが、土地の豪族・服部元成の息子だと言われています。
幼名観世丸。
のちに清次と名乗りました。
大和国を中心として興福寺、春日神社などの神事能に奉仕する大和猿楽四座の結崎座の一員でした。
(「能楽」と呼ばれるようになったのは明治以降のことです。江戸時代までは、従来の猿楽から発展した能も「猿楽」と呼ばれていました)
幼い頃から活躍していた観阿弥は、大人になると大柄な男性に成長しましたが、非常に芸達者でした。
女性の舞いではまるで本物の女性のように優美に演じたそうです。
1370年代頃には、自らの一座を率いて京都周辺へも興業に足を伸ばすようになりました。
能楽の成功、死
1374年5月、観阿弥が42歳のときに、京都の今熊野宮の祭礼として大きな能の会が催されました。
既にその世界では第一人者だった観阿弥は、最長老が舞うしきたりの「翁」という神聖な曲目を演じる大変名誉な役に選ばれています。
その時観劇していたのが、当時18歳の将軍・足利義満でした。
将軍・義光は初めて観る観阿弥の舞いの素晴らしさに感動。
また12歳だった観阿弥の息子の世阿弥という美少年の素晴らしい演技にも注目しました。
これ以降、観世一座は幕府のお抱え的存在になり、多くの有力武家や公家たちが一座をひいきにするようになったのです。
観阿弥の「結崎座」は、本芸の猿楽よりも能を中心に演じるようになり、やがて観阿弥と世阿弥の芸名が座名となって「観世座」と呼ばれるようになりました。
観阿弥は猿楽の伝統にプラスして新しい要素も採り入れながら、芸を磨きますます多くの人々を魅了しました。
また、一座を率いながら能楽界の指導者としても活躍します。
1384年の初夏、観阿弥は、駿河国の浅間神社の御前で法楽の能を舞いました。
いつものように素晴らしく華やかな舞いに見物人たちは讃辞を惜しみませんでした。
ところが、観阿弥はその後突然駿河国で客死し、52歳の生涯を閉じてしまったのでした。
そしてこののち、観世座は観阿弥の息子・世阿弥に継承されていくことになります。
観阿弥が作った能とは何か
さて、能とは一体どういう芸能だったのでしょうか。
猿楽、田楽と能の違いとは
ここでは、「田楽」「猿楽」「能」の違いについて簡単に説明します。
豊作を祈る農村の民俗から発展した芸能です。
中国の伝来芸能と日本古来の芸能が合わさって発達した雑芸。
滑稽なしぐさやセリフを用いた、物まね・曲芸・歌・踊り・手品など雑多な芸が入っていました。
田楽も猿楽も、神社の祭礼や寺の法会には欠かせない大切な行事・興業でした。
大きな神社や寺は専属の専門集団である田楽座や猿楽座をかかえていたのです。
観阿弥は、その猿楽座で演じながら、田楽のおもしろい部分も取り入れ、猿楽を発展させていきました。
なぜ観阿弥の猿楽がウケたのか
当時の近畿エリアにあった猿楽座は観阿弥が率いる観世座(結崎座)だけではありませんでしたが、その中でも観世座の人気はダントツでした。
その理由は、
2.田楽・猿楽以外に、曲舞と呼ばれるテンポの早い軽快なリズムとメロディの歌舞を採り入れ、猿楽のバラエティーを幅広くしたこと
3.猿楽のウリの一つ、物まねにおいて、観阿弥が老人・美女・鬼など変幻自在に演じるのが評判になったこと
4.観阿弥が自分で台本(謡曲)を書き、他の座にはない独自の広いレパートリー(曲目)を持ったこと
5.序・破・急の原理(ゆるやかな動きから次第に早くなり、最後に最高潮に達する構成のステップ)で盛り上がる工夫をこらした演出をしたこと
などです。
観阿弥は古い形にとらわれず、柔軟に時代に好まれる演目を作っていったのです。
観阿弥の祖先は武将で忍者?
異論もありますが、観阿弥のルーツについてはこんな話しがあります。
彼の母親は河内国玉櫛庄出身で、南北朝時代で活躍した武将・楠木正成の姉妹だという説があるのです。
これが本当ならば、観阿弥は楠木正成の甥ということになります。
また彼の父は、先祖が伊賀の阿蘇田(現在の名阪国道、上野インターチェンジ付近)の豪族だった服部元成という人物。
観阿弥の本名は、服部三郎清次になっています。
伊賀の服部、といえば、伊賀忍者の服部半蔵を思い出します。
武将にしろ、忍者にしろ観阿弥のルーツは興味の惹かれるものですね。
観阿弥ゆかりの地
観阿弥にゆかりのある場所を2箇所ご紹介しましょう。
観阿弥創座之地
奈良との県境になる三重県名張市上小波田地区の鎮守の森に、大きな「観阿弥創座之地」の碑があります。
これは、この地で観阿弥が一座を組んだという故事(異なる解釈もある)にちなんだものです。
周囲は観阿弥の偉大な功績を後世に伝えるために整備された「観阿弥ふるさと公園」となっています。
ヒノキ造りの能舞台や東屋などがあり、毎年、11月には「観阿弥まつり」が行われ、能楽愛好家による仕舞や地元の子どもたちによる狂言などが演じられています。
<観阿弥ふるさと公園 観阿弥創座之地碑: 三重県名張市上小波田>
観阿弥の墓所
大徳寺を復興させた一休宗純が開祖となって創建したのが真珠庵です。
ここに観阿弥・世阿弥父子の墓があります。
小さな五輪塔が2つ並んでいますが、風化が進んでおり、どちらがどちらの墓なのかは分からなくなっています。
当寺院は特別公開の時を除いて通常は非公開ですが、公開されるときもこの墓は立ち入りが許されていないので残念ながら参拝は難しいようです。
<大徳寺・真珠庵 観阿弥・世阿弥の墓:京都府京都市北区紫野大徳寺町52>
きょうのまとめ
簡単なまとめ
観阿弥とは、
① 観阿弥はあらゆる役を演じ分けることのできる猿楽一座の花形演者
② 猿楽に田楽や曲舞など他の芸能から良い部分を採用し、オリジナリティのある作品を創って進化させた能楽の創始者
③ 室町幕府第3代将軍・足利義満のお抱え一座・観世座を率い、後継を育成した指導者
でした。
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