ドストエフスキーとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』など、名だたる文学作品たちを世に送り出した文豪、

フョードル・ドストエフスキー

現在でも熱狂的なファンを多く抱える一方で、19世紀にロシアで活躍した作家の人生は、波乱に満ちたものでした。

ドストエフスキーとは一体どんな人物だったのでしょうか。

今回はその生涯を一緒に見ていきましょう。

 

ドストエフスキーはどんな人?

プロフィール
ドストエフスキー

ドストエフスキー
出典:Wikipedia

  • 出身地:ロシア モスクワ
  • 生年月日:1821年11月11日
  • 死亡年月日:1881年2月9日(享年60歳)
  • 19世紀に活躍した小説家、思想家。ロシアの文豪。

 

ドストエフスキー 年表

年表

西暦(年齢)

1821年(0歳)ロシアのモスクワで誕生。

1838年(17歳)サンクトペテルブルク陸軍中央工兵学校に入学。

1843年(22歳)同学校卒業後、サンクトペテルブルクの工兵隊製図局に所属。

1844年(23歳)中尉に昇進するも、退職。作家を志す。

1846年(25歳)『貧しき人々』を発表。高い評価を得て、華々しい作家デビューを果たす。

1849年(28歳)秘密結社(初期社会思想のグループ)サークルの一員となり、逮捕される。死刑判決まで出されたが、皇帝の特赦により減刑。4年間のシベリア流刑となる。

1854年(33歳)西シベリアのオムクスで過酷な強制労働の末に服役を終えると、モンゴル国境付近で兵士としての軍隊勤務を命じられる。

1859年(38歳)サンクトペテルブルクへの帰還が許される。

1861年(40歳)兄と共に月刊の文学政治雑誌を創刊。『死の家の記録』を連載し、シベリアでの囚人生活を克明に記した。同年、『虐げられた人たち』の連載開始。

1864年(43歳)論評誌を創刊し、『地下室の手記』を掲載。妻と兄が他界し、残された債務によって極度の貧困に陥る。

1865年(44歳)『罪と罰』の連載開始。翌年『賭博者』を口述筆記で完成させる。その際知り合った速記者と再婚。

1868年(47歳)『白痴』の完成。

1872年(51歳)『悪霊』の完成。

1875年(54歳)『未成年』の完成。

1880年(59歳)『カラマーゾフの兄弟』第一部の完成。

1881年(60歳)サンクトペテルブルクで死去。

 

ドストエフスキーの生涯

ここでは、ドストエフスキーの生涯や功績についてその概要をご紹介していきます。

「現代の預言書」

ドストエフスキーの作品に共通して見られるテーマは、「人間の本質」について。

人間の持つ悲劇性や、悪とは何なのか。

複雑に絡み合い、読者を深い思索の海に誘う様な構成は、いつの時代に読まれても新しくかつ普遍的な内容です。

永遠の現代性を持つドストエフスキーの作品は、それ故にいつの時代でも「現代の預言書」と言われているのです。

作風に影響を与えた出来事

ドストエフスキーが作家としてデビューするのは、25歳のとき。

虐げられる貧しい人々や労働者に共感し、デビュー作の主人公もそういった人物を当てはめました。

批評家たちに注目され、高い評価を得た本作によって、彼は華々しい作家デビューを果たします。

またその頃のドストエフスキーは、帝政ロシアに対して反発を感じ、政治運動に参加するようになります。

そして彼のその後の人生に多大な影響を与える出来事が起きたのは、28歳のときでした。

後の社会主義思想の前衛とされる秘密結社サークルに所属していた彼は、スパイによって危険因子とみなされ、仲間と共に逮捕されてしまうのです。

投獄された後に待ち受けていたのは死刑宣告。

銃殺刑に決まり数分後に刑が実行されるというまさにその時、

「皇帝の特赦により、減刑される。」

との知らせが届きます。

その後のドストエフスキーは、シベリアの地で4年間の過酷な強制労働に耐え、さらに別の地で兵士として勤務させられます。

そして再び慣れ親しんだサンクトペテルブルクの町に帰還したときには、実に10年もの歳月が流れていました。

この一連の出来事を受け、ドストエフスキーの思想は、社会主義的な思想からキリスト教的な人道主義へと変化します。

死を目前に突き付けられた人間の最上級の恐怖。

強制労働によりプライバシーも尊厳も奪われた日々。

これらの極限体験を自ら味わった彼の後の著作に、この出来事が関わっていることは明らかです。

そして文豪へ

10年もの極限的な日々を生き抜いたドストエフスキーは、その後『死の家の記録』で強制労働時の過酷さを描写しました。

さらに同年には『虐げられた人たち』で苦悩や救済をテーマにし、どちらも兄と共に創刊した文学政治雑誌に連載しています。

再び作家としての生活に戻った彼はその後、彼自身を文豪の地位へ押し上げることになる代表作を次々と世に送り出すのです。

冒頭でご紹介した

・『罪と罰』

・『悪霊』

・『カラマーゾフの兄弟』

は、ドストエフスキーが40代半ば以降に書いた後期の代表作、「五大長編」と呼ばれる小説のうちの3作品です。

ちなみにスターリンが独裁政権を握っていた1924年~1953年までの期間、ドストエフスキーの作品は、デビュー作の『貧しき人々』以外その多くが発禁処分されていました。

ロシア文学の名著でありながら、人道主義的で反権力の立場をとっていたドストエフスキーのこれらの作品を、スターリン政権は良しとしなかったのです。

 

ドストエフスキーにまつわるエピソード

ここでは、ドストエフスキーの悲劇や苦悩に関するエピソードをご紹介していきます。

悲劇の原点

ロシアのモスクワで次男として誕生したドストエフスキー。

彼の父親は貧困者のための慈善病院で、外科医長として働いていました。

いくつかの領地を持ち、妹2人弟2人の6人兄弟の中で育ったドストエフスキーの幼少期は、比較的恵まれたものを想像できます。

しかし、彼の悲劇は10代半ばには既に始まっていたのです。

15歳で母親が死去。

18歳のときには、父親が領地の農民から反感を買い惨殺されてしまうのです。

彼の身に起こるその後の過酷な出来事を前に、既に人間の悲劇や闇を描くテーマは、この事件が影響を与えていると考えられます。

追われる日々

強制労働生活から帰還し、作家生活に戻った40代以降。

ドストエフスキーが代表作を発表し、作家としての収入が安定するようになるのは、実は50代後半の最晩年の頃でした。

実は彼には賭博にのめり込む癖があり、借金取りに追われる日々が続いたのです。

さらにその頃、最初の妻と兄を立て続けに亡くしています。

深い悲しみに暮れる間もなく、抱えた借金返済のために過密なスケジュールに追われ、口述筆記によって作品を完成させることもありました。

ちなみに2度目の結婚相手は、その際に速記者を務めた女性でした。

2人は悪質な借金取りから逃れるために、ジュネーブやフィレンツェなどの地に4年に渡り亡命したのです。

『白痴』や『悪霊』などの著作は、この亡命期間中に執筆された作品と言われています。

 

きょうのまとめ

今回は19世紀に活躍したロシアの小説家、そして思想家のドストエフスキーの生涯についてご紹介しました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ドストエフスキーとはどんな人物だったのか、簡単にまとめると

① 人間の本質を描く、19世紀ロシアの文豪。

② 『貧しき人々』で華々しいデビューを飾り、代表作となる晩年の作品は「五大長編」と呼ばれている。

③ 少年期に父親を惨殺され、青年期に死刑宣告や強制労働生活を強いられるなど、過酷な体験が多い。

自ら極限状態を幾つも経験し、作品の中に落とし込んでいったドストエフスキー。

その波乱に満ちた生涯を軸に生み出された作品は、他を寄せ付けない凄みを放ちながらも、全人類に共通する普遍的な事柄がテーマになっているのです。

 

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