1615年、豊臣家と徳川家による「大坂夏の陣」にて、10倍の兵力をもつ徳川軍相手に孤軍奮戦し、名誉の戦死を遂げた
後藤又兵衛。
誰がどう見ても、負けることが明らかなこの戦いですが、むしろ豊臣勢のなかでは彼が唯一、大坂夏の陣に勝機を見出していました。
そしてその最期にしても、又兵衛らしい一本筋の取った死に様を見せています。
彼は圧倒的劣勢にどう立ち向かおうとしたのか、そしてどう死んでいったのか。
今回はその最期の戦いに迫っていきましょう。
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「大坂冬の陣」の和睦
1614年に行われた「大坂冬の陣」は、兵力こそ徳川軍が上回っていたものの、大坂城の堅牢な守備力に阻まれ、結局は和睦の流れで終結しました。
しかしこれは実は家康の罠で、この和睦の条件で豊臣軍はその守備力の要を失うことになります。
大坂城が難攻不落とされていたのは、城の周囲に張り巡らされた二重構造の濠が、どんな兵力をもってしても乗り越えられなかったから。
大坂城は本丸を中心にして外側に向かい、「二の丸」・「三の丸」という建物が建てられており、それぞれの外側に濠が作られていました。
家康は「三の丸の外濠を埋めること」を和睦の条件にしたのですが、工事を始めるとその約束を破り、なんとすべての濠を埋め立ててしまったのです。
こうして豊臣家は城の守備力という唯一の武器を失い、絶対に勝ち目のない状況のなか、「大坂夏の陣」に挑まざるを得なくなるのでした。
最期の戦い「大坂夏の陣」
本丸が丸裸の状態になった無防備な大坂城では、豊臣家得意の籠城作戦も通用しません。
かといってまともに戦おうとしても、兵力は徳川軍のほうがずっと上…。
劣勢をくつがえす奇策
この劣勢をくつがえす奇策を考案したのが、又兵衛でした。
彼が大坂夏の陣で考えた作戦は、大坂城から20キロほど離れた地点、大和国(奈良)との国境にある国分村を戦場にするというもの。
国分村は以下のような特徴をもっていました。
・丘陵地帯を抱えているので、待ち伏せして上から敵を迎え撃てる
又兵衛は国分村の地理を熟知しており、「城がダメなら地形を利用した戦いに持ち込もう」と考えたわけです。
徳川勢が大坂に攻め込むにはここを通らざるを得ず、これは兵力で劣る豊臣家にとって唯一、勝機を見出せる作戦でした。
これには豊臣方の武将たちも「良案だ」と称賛したといいますが…
作戦は不運にも失敗してしまうのです…。
濃霧に見舞われ作戦は失敗…?
国分村で徳川勢を迎え撃つ作戦が決行されたのは1615年6月2日のこと。
明朝、現地の道明寺という寺に又兵衛の隊を筆頭とする
・薄田兼相
・真田幸村
・毛利勝永
など、豊臣側の隊が集結する手筈になっていました。
しかしこの日は濃霧に見舞われ、定刻通りに道明寺へ辿り着けたのは又兵衛の軍だけ。
徳川軍は容赦なく進軍してきますが、後続は待てど暮らせどやってきません。
そして徳川軍の先発組・水野勝成隊が、ついに国分村に差し掛かったという報告が入ってきます。
こうして又兵衛は自軍の2,800人のみを率いて、敵を迎え撃つことを決断するのです。
窮地に立たされても家康の誘いに乗らなかった又兵衛
実はこの国分村の戦いの前に、家康は又兵衛に使者を送り
と、誘っていたのだとか。
しかしこれを聞いた又兵衛は
と、誘いを断ったといいます。
単身、徳川勢に立ち向かったことといい、死を恐れない固い意志を感じさせられますね。
総勢2万以上の徳川軍相手に2,800の兵力で奮戦
覚悟を決めた又兵衛は国分村の丘陵地帯・小松山に陣取り、徳川軍を迎え撃ちます。
このときその場に居合わせた豊臣軍は又兵衛率いる後藤隊2,800人のみ。
対する徳川軍は
・本田忠政隊
・松平忠明隊
・伊達政宗隊
が後から後から到着し、総勢2万を超える兵力を展開します。
又兵衛はこれに丘陵地帯の地形を使って対抗。
上ってくるのに時間がかかる相手を鉄砲で怯ませ、隙をついて馬や歩兵で一気に攻めかかるという戦法を駆使し、約5時間も戦い続けたといいます。
作戦も巧みですが、なにより敵わないことがわかっていながらも、部下たちが怖気づかずに又兵衛に従ったことがすごい…。
後藤隊の厚い信頼関係を感じさせられる戦いです。
最期は秀頼から授かった脇差で首を討たせた
5時間に渡って徳川軍に抵抗した又兵衛でしたが、ついに敗戦のときがやってきます。
前線で戦っていた又兵衛は、伊達政宗の鉄砲隊の餌食となり、重症を負って動けなくなってしまったのです。
もはや討たれるのは時間の問題。
しかし大将の首を敵に持って行かれることは、武士として絶対に避けなければならない恥です。
又兵衛はこのとき、豊臣秀頼から授かった脇差の刀・行光を近くにいた部下に差し出し、
と命じます。
「敵にやられるぐらいなら主君から授かった刀で死のう」というのでしょうか。
このとき介錯を頼まれた部下は、乱戦のため又兵衛の首を持ち帰ることができませんでしたが、代わりにこの行光と軍旗を形見として秀頼に渡したといいます。
最期まで主君への忠誠を貫いた、又兵衛らしい死に様ですね。
きょうのまとめ
圧倒的劣勢においても決して勝つことを諦めず、率先して作戦を考案した後藤又兵衛。
作戦が失敗したあとも、その抵抗を見る限り、彼は勝つことを諦めていなかったのでしょう。
信念を貫いて死んでいくその姿には、多くの人が戦国武将に求める男気が詰まっています。
最後に今回のまとめです。
①大坂夏の陣で、後藤又兵衛は勝ち目のない豊臣軍に、地形を利用した奇策で勝機を見出した
②濃霧に見舞われて後続の到着が遅れ、作戦は失敗。後藤隊のみで徳川軍に挑むことに…
③10倍の兵力をもつ徳川軍に5時間の奮戦。最期は主君・秀頼の刀を部下に託し、自ら命を絶った
死ぬことが怖いのは、やり残したことがあるからだとよくいいます。
それこそ又兵衛が死をも恐れなかったのは、この戦いで彼が最善を尽くし、やり残したことがひとつもなかったからかもしれませんね。
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