小早川秀秋は関ヶ原の戦いで東軍を勝利に導き、
その後51万石の大大名となりながら、21歳の若さで亡くなりました。
一体彼になにがあったのか、小早川秀秋がどんな人物だったのかを見てみましょう。
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小早川秀秋はどんな人?
- 出身地:近江国(現・滋賀県)長浜
- 生年月日:1582年
- 死亡年月日:1602年10月18日(享年21歳)
- 豊臣秀吉の養子となったが再度小早川家に養子に出され、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返ったことで東軍勝利のきっかけを作った
小早川秀秋 年表
西暦(年齢)
1582年(1歳)羽柴(豊臣)秀吉の正室おねの兄・木下家定の五男として誕生
1584年(3歳)秀吉の養子となる
1593年(12歳)秀吉と側室・淀殿の間に豊臣秀頼が誕生
1594年(13歳)秀吉の実子・秀頼誕生に伴い、小早川家の養子となる
1597年(16歳)慶長の役(朝鮮出兵)に総大将として出陣
1598年(17歳)帰国後、減封の上転封。豊臣秀吉の死後に徳川家康によって筑前・筑後に復領できた
1600年(19歳)伏見城攻撃に西軍として出兵。関ヶ原の戦いに西軍として参戦。のち東軍に寝返り、東軍勝利をもたらす。戦後、宇喜多秀家の旧領備前・美作の51万石を拝領
1602年(21歳)病没
小早川秀秋の生涯
特別扱いが当たり前の少年期
1582年に誕生した秀秋は、もともと豊臣秀吉の正妻・高台院(おね)の兄の五男、つまり秀吉の甥でした。
のち、世継ぎのいない秀吉の養子となり、秀吉後継者とされた豊臣秀次の後を継ぐのは秀秋と考えられていました。
秀吉は秀秋に高く期待し、7歳頃にはすでに元服させ、丹波亀山城の10万石を与えています。
1592年には数え年11歳で従三位・権中納言兼左衛門督に任ぜられ、豊臣家を継承する者として広く認知されていた秀秋。
子供のうちから周囲の者や全国の大名から甘やかされ、接待漬け酒浸りの毎日でした。
秀吉に捨てられ、小早川に拾われ・・・
ところが、1593年に秀吉の実子・豊臣秀頼が誕生すると、豊臣秀次・秀秋の立ち場が一気に変わりました。
秀吉の秀秋への期待が薄れ、秀秋は小早川隆景の養子に出されます。
彼がこの程度で済んだのはまだましでした。
なぜなら、秀秋と同様の立ち場となった豊臣秀次は、1595年に突然秀吉への謀叛の疑いで強制的に出家させられ、蟄居の上に切腹となっているからです。
当時、秀秋も秀次の事件の影響で丹波にあった所領を没収されています。
代わりに小早川隆景の隠居の際に、彼の所領37万石を相続して筑前国(名島城)国主となりました。
朝鮮出兵と減封から復帰
1597年、小早川秀秋は秀吉の命令で慶長の役に出陣し、釜山城の城番を務めたそうです。
しかし、秀吉から再三の帰国要請を受けて1598年に帰国すると、秀秋は筑前(現・福岡県)から越前(現・福井県)へ転封となり、石高も半分となってしまいました。
収入が半減した秀秋は、昔からの頼りになる家臣たちを泣く泣く手放しています。
同年8月に秀吉が亡くなると、秀秋は大老だった徳川家康の温情によって筑前に復帰できました。
ここに、小早川秀秋は家康に大きな借りができたのです。
関ヶ原の戦い、裏切り
1600年の関ヶ原の戦いは、秀吉亡き後の後継者問題を背景にした、石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)の権力闘争です。
関ヶ原本戦の前にあった伏見城の戦いでは、豊臣一族として生まれ育った小早川秀秋が、西軍として活躍。
そのまま本戦にも西軍として出陣しました。
しかし、実のところ秀秋は本戦前には東軍への寝返りを家康に約束していたのです。
兵8千の小早川軍は、松尾山に布陣したまま最初の4時間の戦いを傍観していました。
という逸話もあります。
ともかく小早川軍は急に東軍に味方して、山を駆け下り、西軍の大谷吉継の陣を攻めます。
小早川軍の中には、その秀秋の裏切りに納得せず離反した大将もいたほどですから、秀秋の行動は露骨で、卑怯なことだと思われたのでしょう。
それでも大軍だった小早川軍の動きに反応し、西軍だった
・赤座直保
・朽木元綱
・小川祐忠
らが連鎖的に東軍に寝返ってしまいました。
さすがの大谷軍もかなわず、名将・大谷吉継は自刃。
開戦して約6時間後という驚異的な早さで西軍は壊滅し、東軍勝利で決着しました。
秀秋は、その後の石田三成の佐和山城攻めにも東軍として出陣しています。
卑怯者の烙印と死
勝利に貢献した小早川秀秋は、戦後の論功行賞で宇喜多秀家の旧領・岡山51万石を与えられました。
しかし、合戦中の裏切りをした小早川秀秋に対し、東軍の人々の反応でさえ冷淡でした。
豊臣家の養子として出世した恩がありながら寝返った秀秋は、卑怯者と嘲笑されたのです。
合戦から2年の1602年、小早川秀秋は21歳で急死しています。
鷹狩りの最中に体調を崩し、3日後に死亡。
死因は、子供の時からのアルコール依存症によるアルコール性肝硬変だと言われています。
小早川秀秋には子供がなかったため、小早川家は断絶しました。
関ヶ原の戦いでの裏切りは、その後も長く小早川家の旧臣たちを苦しめ、彼らは「小早川浪人」と呼ばれて仕官の先がなく、苦労したということです。
小早川秀秋の刀
岡山藤四郎
2013年「岡山藤四郎」と呼ばれる短刀が、東京国立博物館に所蔵されていたことがわかりました。
鎌倉時代の短刀作りの名手「粟田口吉光」による名刀です。
豊臣秀吉の死後に小早川秀秋へ、そして徳川家康に渡ったとされます。
名前は、秀秋が岡山城主だったこと、「藤四郎」が刀工・吉光の通称だったことに由来しています。
<岡山藤四郎:短刀/銘・吉光/東京国立博物館所蔵>
波游兼光
波游兼光変わった名前のこの刀の由来のひとつに、小早川秀秋が名誉挽回できそうな逸話があります。
くせ者は川に飛び込み泳いで逃亡。
対岸に泳ぎ着き、岸に這い上がった途端、ばったり倒れたのです。
秀秋の家臣たちが暴漢の身体を調べると、右肩から左の胸まで見事に両断されていたとか。
秀秋の腕前と同時に刀の切れ味に驚いた人々は、それ以来この刀を波游兼光と呼んだのです。
<波游兼光:刀/無銘/個人蔵>
小早川秀秋の墓所
実際に秀秋が埋葬された 瑞雲寺
岡山城主だった小早川秀秋が埋葬されています。
1338~1341年頃に創建された願満山成就寺から寺号を瑞雲寺に改めたのは、秀秋の法名「瑞雲院殿前黄門秀巌日詮大居士」に因んでいます。
境内には「岡山城主小早川秀秋菩提寺」の碑があり、秀秋の墓は珍しく本堂の中にあります。
墓碑の開扉は年に1度の命日10月18日のみです。
<黄門山 瑞雲寺:岡山県岡山市北区番町2丁目6-22>
小早川秀秋京都での墓所 瑞雲院
瑞雲院は、京都市下京区にある日蓮宗の寺院です。
徳川家康が秀秋の祭祀料として寺領100石を与えたことから「百石寺」、「百石さん」と呼ばれています。
境内には小早川秀秋の墓所があり、御堂には秀秋の坐像も。
拝観には事前連絡が必要です。
<瑞雲院:京都府京都市下京区岩上通五条上る柿本町682>
きょうのまとめ
今回は、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返ったために、東軍勝利をもたらしたと言われる張本人・小早川秀秋についてご紹介しました。
小早川秀秋とは、
① 秀吉の養子となり豊臣家後継者として、ちやほやされて育った少年
② 秀吉の実子・秀頼誕生で豊臣家に不用となり、小早川家の養子として救われた人物
③ 関ヶ原の合戦で西軍から東軍へ寝返り、他の武将たちの西軍離脱をも誘発して東軍勝利へと導いた武将
④ 関ヶ原での武功で加増されたが、卑怯者と呼ばれ、2年後に若くして病没した岡山城主
でした。
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