藩主になったことがないにもかかわらず、幕末の薩摩藩の事実上最高権力者だった
島津久光。
幕末から明治へと移り変わる激動の時代に、
一体彼が何を目指しどんな人物だったのかを見てみましょう。
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島津久光はどんな人?
- 出身地:薩摩国鹿児島城(現鹿児島県鹿児島市城山町)
- 生年月日:1817年12月2日
- 死亡年月日:1887年12月6日(享年71歳)
- 幕末における薩摩藩の事実上の最高権力者で、国父と呼ばれた。公武合体運動を推進したのち、倒幕へと藩を率いるが、明治新政府の開化政策には反対した。
島津久光 年表
西暦(年齢)
1817年(1歳)第10代薩摩藩主島津斉興の五男として誕生
1849年(33歳)お由羅騒動
1858年(42歳)久光の息子であり、島津斉彬の養嗣子島津忠義が第12代藩主に就任。久光が藩政の実権を握り、国父となる
1862年(46歳)薩摩兵を率いて上洛、寺田屋事件、薩摩藩の内部粛清がある、藩兵を率いて江戸に到着、生麦事件
1863年(47歳)薩英戦争。薩会同盟成立。薩英戦争の講和成立。久光の建議により有力諸侯の参与会議発足
1864年(48歳)参与会議瓦解
1867年(51歳)京都で四侯会議開催。のちに将軍徳川慶喜と四候で会談が決裂。大政奉還。王政復古の大号令
1874年(58歳)左大臣となる
1875年(59歳)左大臣を辞する
1876年(60歳)鹿児島に帰国
1877年(61歳)西南戦争、島津久光は中立表明
1887年(71歳)死没
島津久光の生涯と業績
誕生から「国父」と呼ばれるまで
1817年、島津氏27代当主(薩摩藩第10代藩主)島津斉興の五男として誕生。
生母は斉興の側室のお由羅の方です。
その後、種子島家の養子となり、さらに自身の婚姻で重富島津家の婿養子となりました。
父・斉興の後継者を巡り、兄・斉彬と久光の兄弟をそれぞれ擁立する派閥による御家騒動(お由羅騒動)が発生しました。
久光自身は家督を狙っていたわけでも、兄の斉彬と仲が悪かったわけでもありません。
対立する家臣たちにそれぞれが担がれた形の争いは、最終的に将軍の介入まであって決着。1851年斉興は隠退して、斉彬が薩摩藩主となりました。
1858年、男子に恵まれなかった斉彬の没後は、遺言により久光の子の忠義が藩主に就任します。
そのため久光は藩主の実父、後見役として藩政の実権を握り、「国父」の礼をもって遇されることとなりました。
薩摩藩の実力者としての中央への影響力
藩政においては、小松帯刀や大久保利通ら、藩内の中下級藩士で構成された精忠組の中核メンバーを登用しました。
ただ、精忠組の中心人物・西郷隆盛とは終生ソリが合わなかったということです。
1862年、久光は幕政改革のために千人の兵を率いて京に向かいました。
亡き兄・斉彬の遺志を継ぐべく朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を目指した公武合体の推進を目的としました。
その時に無断で大坂へ出掛けた西郷を責め、2年後に藩内有志の嘆願により赦免するまで遠島処分(徳之島、のち沖永良部島配流)にしています。
久光による朝廷への働きかけで、幕府への要求事項として、長州藩、岩倉具視、そして薩摩藩の各意見を採用した、
・沿海5大藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩)で構成される五大老の設置
・一橋慶喜の将軍後見職、前福井藩主松平春嶽の大老職就任
という「三事策」が決定します。
公武合体推進運動と寺田屋事件、生麦事件
このように公武合体を推進していた島津久光は同年、京都滞在中の4月23日に、伏見の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を討伐しました。
これが寺田屋事件です。
5月12日には勅使・大原重徳に随従して江戸へ向かいました。
勅命である文久の改革推進のために江戸では勅使と共に幕閣との交渉に当たり、7月6日には慶喜の将軍後見職。
9日には春嶽の政事総裁職の就任を実現させました。
その帰途の8月21日に起きたのが生麦事件です。
東海道を移動中、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)で随伴の薩摩藩士が、久光一行の通行妨害するイギリスの民間人4名を殺傷したのです。
この事件は、1863年7月の薩英戦争へと発展しました。
戦いでは双方がかなりの被害を受け、最終的に講和が成立。
薩摩藩は賠償金の支払いと犯人の処刑を確約することになりましたが、かえって両者は接近したと言われています。
公武合体路線から倒幕へ
1863年、八月十八日の政変により、過激な尊攘派の長州藩勢力を京都から追放したことで、一時は公武合体派が主導権を握りました。
久光の建議によって公武合体論を体現する調停会議への有力四候、
・松平春嶽
・山内容堂
・伊達宗城
の諸侯の参与が成立したのです。
しかし、孝明天皇が希望する横浜鎖港を巡った政治的対立のために、一橋慶喜と四候の間に不和が生じ、機能不全となった参与会議は解体。
薩摩藩の推進する公武合体運動は頓挫し、久光は参与を辞任して鹿児島に戻りました。
当時、日本国内の情勢としては、1864年から1867年にかけて、
・第一次・第二次長州征伐
・徳川家茂の薨去
・徳川慶喜の将軍就任
・孝明天皇の崩御
など状況は刻々と変わりました。
薩摩藩は、公武合体運動から倒幕路線へと進路変更していきます。
久光は1873年に上京し、政府に出仕して内閣顧問、翌74年には左大臣に就任。
しかし、政府首脳との対立もあり翌年辞職して鹿児島へ帰郷しています。
もうすでに久光は、武力倒幕路線を決心していました。
その後病身となった久光でしたが、徳川慶喜による大政奉還、そして王政復古の大号令となり、戊辰戦争の際には、息子で藩主の忠義に藩兵3000人を率いて京へ向かわせました。
隠居
島津久光は、維新後も鹿児島藩(薩摩藩)での権力を維持していましたが、中央政府の急進的改革には批判的でした。
1871年に政府が実行した廃藩置県には激怒し、廃刀令等の開化政策に対しても反発を続け、生涯髷を切らず、帯刀・和装もやめませんでした。
1877年の西南戦争では中立の立場を表明。
その後は隠居して、晩年は歴史書編纂に専念しました。
1887年に70歳で死去。
鹿児島で国葬されました。
今上天皇は島津久光の子孫だった
実は、今上天皇は、島津久光の子孫に当たります。
薩摩藩最期の藩主・島津忠義は久光の息子ですが、この忠義の八女・邦彦王妃俔子は今上天皇の曾祖母となるのです。
この繋がりに驚くと同時に、考えてみれば、島津久光とは現代からそう遠くない世代の人物だったことがわかります。
島津久光を偲ぶ場所
1887年12月6日に死去した久光は、政府から叙位・叙勲において最高級の待遇をされていました。
彼の葬儀も国葬となっています。
ただし、東京ではなく、鹿児島での国葬でしたので、葬儀のために現地の道路が整備されたのだそうです。
島津久光墓所 福昌寺跡
かつては大伽藍を備えた南九州屈指の大寺・福昌寺は、島津元久の建立。島津氏の菩提寺でした。
明治初年の廃仏毀釈により寺は破壊されましたが、歴代当主と一族の墓は残されており、その中に島津久光の墓もあります。
<福昌寺跡:鹿児島市池之上町24>
島津久光銅像 照國神社
鹿児島市内の照国神社となりにある探勝園には、島津久光の銅像があります。
敷地内には、兄・島津斉彬、息子・島津忠義の銅像もあります。
<照國神社:鹿児島県鹿児島市照国町19-20>
きょうのまとめ
今回は、幕末の薩摩藩で最高権力を掌握した島津久光についてご紹介いたしました。
島津久光とは
① 薩摩藩主島津忠義の後見として、実質的最高権力者となった薩摩の国父
② 幕末における公武合体派の中心で、文久の改革を推進した政治家
③ 明治新政府の急進的改革に批判的で、廃藩置県、廃刀令などの開化政策に反対した人物
でした。
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