モーツァルトとはとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

数ある音楽ジャンルの中でも、クラシックはその繊細に練り上げられた音像や歴史の長さから、

特に格式の高いイメージをもっている人も多いでしょう。

そんなクラシックの楽曲を手掛ける音楽家たちは、いわば伝統芸能を受け継いでいく職人のようなもの。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、

クラシックの聖地であるオーストリア・ウィーンの天才音楽家として、18世紀の終盤、その伝統の基礎を作った存在です。

そして天才と変人は紙一重とはよくいったもので、モーツァルトは音楽の才能以外にも、変わり者という点でしばしば注目を集めます。

もっとも彼が少し変わった性格をしていたからこそ、抜きんでた才能を身に付けられたともいえますが…。

いったい彼はどんな人物だったのか、いかにしてその才能が作られていったのか、

今回はその生涯を辿ってみましょう。

 

モーツァルトはどんな人?

プロフィール
モーツァルト

モーツァルト
出典:Wikipedia

  • 出身地:神聖ローマ帝国・ザルツブルク(現在はオーストリア中北部)
  • 生年月日:1756年1月27日
  • 死亡年月日:1791年12月5日(享年35歳)
  • クラシック・ウィーン古典派の代表的な音楽家。幼少より神童と呼ばれ、『トルコ行進曲』『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など、数々の名曲を作り上げた。

 

モーツァルト 年表

年表

西暦(年齢)

1756年(1歳)神聖ローマ帝国・ザルツブルクにて、宮廷音楽家の父レオポルト・モーツァルトの7番目の末っ子として生まれる。

1761年(5歳)父によって音楽の才能を見出され、このころから作曲活動を開始。なお、3歳のころにはすでにチェンバロの演奏を始めていた。

1762年(6歳)ザルツブルクで宮廷音楽家を務めるかたわら、ウィーン、パリ、ロンドン、イタリア各地の都市を巡る演奏活動を開始する。

1770年(14歳)ローマ教皇よりその音楽的才能を評価され、黄金拍車勲章を授与される。

1777年(21歳)ミュンヘン、マンハイムと住居を移す。このころ従姉妹のベーズレや、マンハイムで歌手をしていたアロイジア・ヴェーバーと恋仲になる。

1778年(22歳)アロイジアとの恋愛に反対した父レオポルトの指示でパリに移住。同行していた母をこの地で亡くす。

1781年(25歳)ザルツブルク大司教・ヒエロニムス・コロレドと衝突し、宮廷音楽家の職を解雇される。このころからウィーンにてフリーの音楽家として活動するようになる。

1782年(26歳)アロイジアの妹、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。

1783年(27歳)『トルコ行進曲』を作曲。

1785年(29歳)ハイドンに『弦楽四重奏曲集』を提供。その才能を絶賛される。

1786年(30歳)オペラ『フィガロの結婚』が大ヒット。同年父レオポルトが死没。

1787年(31歳)『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を作曲。

1791年(35歳)ウィーンの自宅にて2週間病魔に伏した末、死没。

 

モーツァルトの生涯

それではモーツァルトの生涯をみていきましょう。

幼少期から神童として育てられたモーツァルト

1756年1月27日、モーツァルトは現在のオーストリア中北部にあたる、神聖ローマ帝国のザルツブルクにて、宮廷音楽家を務めていた父・レオポルトの元に生まれました。

モーツァルトは3歳でチェンバロの演奏を始め、5歳で作曲活動を開始したという逸話を残しており、その才能を確信したレオポルトによって、幼少より厳しい音楽教育を受けることになります。

6歳から父と共にザルツブルクで宮廷音楽家を務め、そのかたわら、さらに仕事の幅を広げようと、ウィーン・パリ・ロンドン・イタリア各地といった都市への度重なる演奏巡業を行いました。

巡業中もイタリアの作曲者ジョバンニ・バッティスタ・マルティーニに、対位法やポリフォーニ技法といった作曲技術を学ぶなど、その教育に余念はありません。

またモーツァルトは晩年、自身の幼少期を振り返って、

モーツァルト
「目隠しをして演奏させられた」

「音楽の試験も数多く受けさせられた」

など、その壮絶さを語っています。

その才能と鍛錬の甲斐あってでしょうか、かの詩人ゲーテが幼少期の彼の演奏を耳にした際には、

ゲーテ
絵画で表せばラファエロ、文学ならシェイクスピア

と実力を絶賛したほどです。

また1770年、14歳のころにはローマ教皇から黄金拍車勲章を授与される快挙も残しています。

しかしこのころの報酬は弾まず、その後は職にも恵まれなかったとのこと。

彼は「20代、30代になっても子供っぽい性格をしていた」といいますから、当時の音楽家の職として主流だった宮廷音楽家には向かない性分だったのかもしれません。

恋多き青年時代のモーツァルト

1777年、21歳のころにモーツァルトは、故郷のザルツブルクを離れ、現在のドイツ北部にあたるマンハイムに住居を移します。

このころのモーツァルトはとにかく恋多き青年というイメージで、マンハイム時代は従姉妹のベーズレ、歌手のアロイジア・ヴェーバーなどとそれぞれ恋仲になりました。

特にアロイジアはとても美しい女性で、また歌手としての才能もあったため、モーツァルトをとりこにします。

しかしオペラでプリマドンナの座を手にして態度が横柄になるといった側面を、父レオポルトが嫌い、モーツァルトをパリへ引っ越させる形で二人の仲を引き裂いてしまうのです。

パリへ移ったモーツァルトは、音楽家としての報酬にも恵まれず、おまけにその地で母親を亡くしてしまうことになるのですから、もう踏んだり蹴ったりといったところ。

このころの著名な作品としては『交響曲第31番ニ長調「パリ」』があります。

いかにもパリを彷彿とさせる優雅な曲調ではありますが、当の本人は浮かばれない恋や不遇な評価に、鬱々としながら作曲にあたっていたのかもしれませんね。

<交響曲第31番ニ長調「パリ」>

コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚・全盛期へ

1781年、25歳になったモーツァルトはザルツブルク大司教との衝突で宮廷音楽家を辞し、ウィーンにてフリーの音楽家として活動をし始めます。

雇い主である大司教と衝突してしまうとは、幼少期の就職活動もそうだったように、ここでもその子供っぽい性格が災いしたのでしょうか…。

またその翌年、1782年には、父に仲を引き裂かれたアロイジアの妹コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。

コンスタンツェはアロイジアと違い、美貌も音楽の才能もイマイチで、モーツァルトとの結婚も嫁入り先を心配した両親の差し金だという話があります。

これを聞くとモーツァルトは余り物を押し付けられたような印象を受けます。

しかし夫婦仲は良く、コンスタンツェはモーツァルトの作曲活動を献身的に支えたとのこと。

その証拠に、結婚翌年の

1783年には代表曲ともいえる『トルコ行進曲』

1786年にはオペラ『フィガロの結婚』、

1787年には『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』

など、名曲を立て続けに作り上げています。

ハイドンに『弦楽四重奏曲集』を提供し、絶賛されたのもこの時期の話。

結婚してからの20代後半は、モーツァルトの全盛期といっても過言ではないでしょう。

<トルコ行進曲>

晩年は借金に悩まされていた?

20代後半、名曲を数多く残し、全盛期を迎えたモーツァルトですが、30代になると収入が減り、晩年は借金を抱えていたとされています。

そして貧困に苦しむ最中、病魔に侵され、1791年12月5日、35歳の若さにして亡くなってしまいました。

このように晩年のモーツァルトはその才能をもちながら職に恵まれず、報われない最期を迎えたというのが一般的な認識でしょう。

しかし実はこの「職に恵まれなかった」という部分には、少し誤解があるようです。

なにせモーツァルトは晩年も

・オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』

・『皇帝ティートの慈悲』、

・『魔笛』

などの作品を残し、演奏やオペラの公演も精力的に行っています。

死の直前にしても、『レクイエム』の作曲にあたり、これにも高額の報酬を約束されていたとのこと。

晩年も年収にして、推定3000万円は稼いでいたといわれています。

それに対して彼が抱えていた借金は800万円ほど。

モーツァルトの稼ぎを考えれば払えない額ではなく、これはしばしば疑問の残る部分です。

一説によると、モーツァルトはギャンブル好きで散財していたという噂も。

彼の子供っぽい性格を考えると、この噂もあながち間違いではないのかもしれません…。

 

きょうのまとめ

幼少より厳しい鍛錬を積んだモーツァルトは、一時その才能が報われないこともありました。

しかし20代後半で花開き、35年という短さで生涯を閉じたものの、その功績は後世に渡って「ウィーン古典派の代表格」として語り継がれるものとなったのです。

最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。

① 幼少期のモーツァルトは父レオポルトによって、演奏巡業を始め、数々の厳しい音楽教育を受けていた

② 20代のモーツァルトは恋多き青年だった。結婚後は勢いに乗り、音楽家としても全盛期を迎えていく

③ 晩年、貧困に悩まされたモーツァルトだが、実は年収3000万の高収入だった。借金はギャンブルによるもの?

幼少期から音楽一辺倒の日々を送り、その才能を認められながらも、晩年は借金を抱えていたモーツァルト。

彼は誰がどう見ても「極端に偏った人生を歩んだ人」といえるでしょう。

しかし天才の名をものにする人というのは、多くがこのように偏った人生を歩んでいるのかもしれません。

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