悪女、平安時代のクレオパトラ、などと呼ばれることもある
藤原薬子。
男性と比べ、女性が歴史の表舞台に登場することは多くありませんが、
「薬子の変」というように名前が事件の呼称となった張本人の女性はどんな人物だったのでしょうか。
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藤原薬子はどんな人?
- 出身地:未詳
- 生年月日:未詳
- 死亡年月日:810年10月17日 (享年未詳)
- 娘の夫である年下の平城天皇を虜にして政治に介入。兄とともに専横を極めるが、譲位した平城天皇を再び皇位に就けよう画策した「薬子の変」を阻止され、服毒自殺した
藤原薬子 年表
西暦(年齢)*生年未詳のため年齢も未詳。798年時点で40歳代だったのではないかと言われる
781年桓武天皇即位
784年父・藤原種継が造長岡宮使に任命される
785年藤原種継が暗殺される
798年薬子の長女が安殿親王(のちの平城天皇)の妃となり、薬子は東宮宣旨となる
806年桓武天皇崩御後、平城天皇即位に伴い薬子は宮中へ復帰し、尚侍となる
809年平城天皇が病に倒れ、弟へ譲位する。嵯峨天皇誕生
810年平城太上天皇と嵯峨天皇との間の紛争(「薬子の変」もしくは「平城太上天皇の変」)で、服毒自殺
藤原薬子の家系
藤原薬子は、藤原四家の一つ「式家」出身の女性でした。
藤原四家とは、かつて中臣鎌足と呼ばれた藤原鎌足の次男・藤原不比等の4人の息子が興した4つの家のことです。
薬子にとって式家の開祖・藤原宇合は曾祖父となります。
薬子という名前
藤原薬子は藤原式家の藤原種継の娘として誕生。
「薬子」という名前は、種継の母方の祖父が医学に優れた秦朝元だったことが記録に残されており、種継がその朝元にあやかって名付けたと考える説があります。
薬子の家族
薬子の父親は藤原式家の藤原種継です。
母親についての記録は伝わっていません。
同母の兄姉妹かどうかについては不明ですが、兄には藤原仲成、姉妹に藤原東子がいます。
薬子の夫は、同じ式家で種継の従兄弟にあたる藤原縄主。
その縄主との間に3人の男子と2人の女子がありました。
薬子の所業
まれにみる悪女のように言われる藤原薬子は何をしたのでしょうか。
平城天皇との不倫関係
785年9月、造長岡宮使に任命された父親・種継は、長岡京へ遷都後に暗殺されています。
暗殺事件の首謀者と考えられた桓武天皇の皇太弟・早良親王の代わりに、
安殿親王が立太子すると、皇太子の妻として薬子の長女が迎えられました。
すると薬子は妻である娘よりも皇太子に気に入られてしまうのです。
彼女は東宮宣旨(皇太子の世話係)となりました。
しかし、父親の桓武天皇は薬子を嫌い、彼女を宮中から追放。
そして薬子は桓武天皇が亡くなり、安殿親王が平城天皇となった後に呼び戻され、尚侍(女性長官)となって天皇の寵愛を一身に受けたのです。
それは、平城天皇が嵯峨天皇に天皇の位を譲って平城上皇となっても続きました。
天皇の寵愛を利用して政治介入から「薬子の変」へ
薬子は天皇を味方にして、兄の仲成とともに政治介入までするようになります。
薬子の夫である縄主は、大宰帥(だざいのそつ)として九州に赴任させられてしまいました。
これは愛人関係にあったとされる平城天皇と薬子にとって都合がよかったことでしょう。
のち病を理由に平城天皇は弟に譲位して嵯峨天皇の代となります。
譲位後、平城京に拠点を移した平城上皇でしたが、やがて嵯峨天皇と対立。
藤原薬子は不倫関係だった平城上皇の復権と平城京へ遷都し直すことを狙って兄の仲成と共に政権の掌握を画策しました。
しかし、嵯峨天皇側に阻止されて失敗。
平城上皇は出家し、兄・仲成は討取られ、薬子自身は服毒自殺をしてしまいました。
彼女の娘のその後などについてはよく分かっていません。
「薬子の変」か「平城太上天皇の変」か
実は薬子の変は、本当の首謀者が誰だったのかが学会においてもまだはっきりしていません。
「藤原薬子が兄である仲成と共に上皇の重祚(退位した天皇が再び即位すること)を企てた→薬子の変」
と
「平城上皇と取り巻き勢力が都を平城京へ戻すことを企てた→平城太上天皇の変(*太上天皇とは上皇のこと)」
というように考え方が2つに分れ、事件の呼び名も違います。
どちらかというと現代では平城上皇が中心だったと考えるのが通説です。
ただ、この記事ではいまだにまだ広く知られている「薬子の変」の名を採用しています。
薬子の悪女説は誤解の可能性?
かつて藤原薬子は、中国の殷王朝を滅ぼしたとされる妲己のような悪女だと言われていました。
これに関しては、どうやら誤解もあるようなのです。
薬子の変について書かれてある公式の歴史書は『日本後紀』という政府の記録で、よく知られた『日本書紀』と同様に、当時の日本の国内の政治を肯定するために作られた史書です。
政権にとって都合の悪いことは書かれていません。
ですから、政府の正式記録である『日本後紀』では天皇を悪く書くことはできないのです。
薬子の変と呼ばれる事件には平城上皇や藤原薬子たちが関わっていますが、平城上皇を悪者にできない以上、藤原薬子が悪役になる必要がありました。
薬子が平城上皇を誘惑し、嵯峨天皇の平安京の朝廷に対抗するために平城上皇の奈良の朝廷にも力があると主張して再び奈良に都を遷すことを画策した、兄の仲成も妹と共に平城上皇を担いだ、としたのは『日本後紀』です。
事件の罪を一身に引き受けた藤原薬子は、日本の歴史上でもトップクラスの悪女となってしまいましたが、悪女説については、割り引いて考える必要がありそうです。
薬子の変による歴史的影響
実はこの事件、「壬申の乱」や「平将門の乱」などと比べて規模は小さいながら、藤原氏の権力が式家から北家に移動するという、非常に大きな転換点となっています。
事件によって薬子と仲成の実家である藤原式家は没落しました。
そして、嵯峨天皇の配下として活躍した藤原冬嗣は北家出身であり、のちに天皇の外戚関係で藤原氏の栄華を築くことになるのです。
また、平安きってのプレイボーイと評判の在原業平は、平城天皇の孫ですが、この事件によって皇統が平城天皇から嵯峨天皇に移ってしまったことで、父親の代から臣籍降下して皇族から外れてしまうことになりました。
さらに、真言宗を創設したことで知られる僧の空海は、嵯峨天皇の信頼を受け、薬子の変での嵯峨天皇側の勝利を祈念して大祈祷を行っています。
嵯峨天皇圧勝のあと、空海は日本の仏教界のトップとなりますが、その契機となったのが薬子の変でもあるわけです。
きょうのまとめ
今回は藤原薬子や薬子の変と呼ばれる政変とその影響についてご紹介させていただきました。
藤原薬子とは
① 妻であった自分の娘を差し置いて平城天皇を虜にしたとされる女性
② 平城京遷都と平城上皇の復権を画策した「薬子の変」の首謀者とも言われる人物
③ 藤原式家の繁栄を目指すが、事件の失敗により家系没落を招いた式家の出身者
でした。
医学にちなんで薬子と名付けられた藤原薬子の最期は、毒をあおった自殺。
毒蛇に自らを噛ませて死んだというクレオパトラにも似た激しい女性の終止符の打ち方でした。
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