亀山天皇、後宇多天皇の在位中、そして惟康親王が征夷大将軍であった時代に、
鎌倉幕府第8第執権となった北条時宗。
執権とは何でしょう?
そして北条時宗は執権として何を行い、彼自身はどんな人物だったのでしょうか。
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北条時宗はどんな人?
- 出身地:相模国 鎌倉
- 生年月日:1251年6月5日
- 死亡年月日:1284年4月20日(享年34歳)
- 執権を世襲する得宗家の安定化を図り、蒙古軍による元寇の撃退に成功した鎌倉幕府第8代執権
北条時宗 年表
西暦(年齢)
1251年(1歳)相模国鎌倉にて北条時頼の二男として誕生
1257年(7歳)元服
1264年(14歳)連署に就任する
1268年(18歳)鎌倉幕府第8代執権就任
1272年(22歳)二月騒動
1274年(24歳)文永の役(元寇)
1281年(31歳)弘安の役(元寇)
1284年(34歳)死没
そもそも執権とは
簡単に説明すると、執権とは鎌倉幕府の政所(まんどころ)別当のトップです。
将軍を補佐して政務を行います。
将軍・源実朝の時代に北条時政が執権となって以来、北条氏が世襲しました。
北条時宗の場合、1266年に征夷大将軍に就任した3歳の惟康親王の後見を行う形で政務を執った、実質上の日本の統治者でした。
執権・北条時宗の内憂外患な生涯
鎌倉時代に執権政治を行った歴代の北条氏、戦国時代の後北条氏など日本の歴史上で北条の名が付く人々は何人かいますので、誰が何をした人かわかりにくいところもありますね。
そんな中で、北条時宗を理解するキーワードは、あの蒙古襲来=元寇です。
時宗の誕生と執権への道
1251年に誕生した正寿(のちの北条時宗)の兄・宝寿丸(のちの北条時輔)は、側室の子であり、正室の子である正寿が後継者として育てられました。
たった7歳で兄とは規模の違う盛大な元服をしたのは、誰が次の北条氏の棟梁になるのか内外に周知させるためでした。
北条時宗は、10歳で将軍のそばで仕える小侍所の別当となりました。
これは、将来の執権職に役立つ経験を積ませるためです。
既に北条実時が同じ任務についていたにも関わらず、新たに時宗が加わりました。
実時は教養と思慮深さを兼ね備えたよくできた人物で、彼による的確な指導によって、時宗には見事な将来の執権として必要な教育が施されました。
1264年、出家した6代執権の北条長時に続いて、北条政村が7代目の執権となったとき、時宗は14歳で執権の補佐である連署に就任しています。
執権就任と強気の二月騒動・モンゴル対策
時宗は、1268年に18歳の若さで執権に就任。
徳宗家(鎌倉幕府の北条氏惣領の家系)の権力を強化・安定させるために、幕府転覆を計画していたとされる宗尊親王の廃位、京都送還、惟康親王の擁立を実施しました。
1272年には、弟である時宗が執権になったことに不満を持ち、かねてから朝廷に近づいていた異母兄の北条時輔、北条家一族の北条時章(ときあき)・教時(のりとき)兄弟を謀反の疑いで討伐。
さらに関連した御家人を配流する(二月騒動)など、障害を排除していきます。
一方、クビライ・ハーンがモンゴルの皇帝となり、蒙古への服属を求める国書も、モンゴルに滅ぼされた高麗の残党からの援助要請も黙殺するのでした。
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元寇と国内調整
1274年に元寇、つまり元軍の襲来がついにありました(文永の役)。
対馬、壱岐、肥前そして博多へ上陸してきた蒙古軍と守る日本軍との激戦の末、撤退を始めた蒙古軍に「神風」なる暴風雨が襲い、船団に壊滅的な打撃を与えて撃退に成功。
その後、時宗は、元からの使者を二度も処刑して見せしめにして厳しい態度を元に示します。
同時に、文永の役の経験を元に石累の構築や兵や兵糧の調達など国防強化に務めました。
のち、1281年の弘安の役で再び元軍が押し寄せてきましたが、苦戦した元軍は再度の「神風」とされる台風と日本の総攻撃によって壊滅してしまったのです。
また時宗は、国内における亀山天皇と後深草上皇の治天の君(事実上の君主)を争いに対しての裁定を下します。
それによって亀山天皇は皇子の後宇多天皇に譲位して、上皇として院政を行うこと、その代わり後深草上皇の皇子を立太子することが保証されました。
これ以降、交互に2系統から天皇を輩出するという「両統迭立」が始まりました。
問題を残して迎えた時宗の死
元寇の後、日本国内ではなく、海外からの敵に対して戦った御家人に対する恩賞をどこから持ってくるかという問題が起きました。
同時に、3度目の元軍襲来の可能性もあり、国防強化の問題も山積。
しかし、時宗は34歳の若さでなくなってしまいました。
北条時宗の性格
冷酷さと慈悲の心の混在
二月騒動のことなどを考えても、時宗は肉親や一族への粛清についてもかなり厳しい姿勢を見せています。
ところが、その一方、禅宗に帰依して大変信心深い面もありました。
中国から無学祖元を招聘し、祖元が開山した鎌倉の円覚寺の開祖となり、寄進するなどして保護しました。
また、家族には優しかったとも言われます。
時宗が超ヒーローだった時代
今でも歴史の授業で元寇について学ぶときには必ず出てくる北条時宗。
実は、この彼が礼賛され、非常に人気の高かった時代というのが過去に2度ほどありました。
一度目は、幕末です。
尊皇攘夷(国学に影響を受けた天皇を尊び、外国を排斥しようという考え方)の気風が高まると、元寇で元軍を撃退した時宗に対する評価と人気が高くなりました。
また、太平洋戦争の時期も、皇国史観(万世一系とする天皇による国家統治を尊ぶ自国中心の歴史観で、天皇制と帝国主義を支える考え方)が高まり、外敵に立ち向かった時宗を礼賛する人も多くなったのです。
この時代、間違いなく時宗は日本のヒーローでした。
きょうのまとめ
今回は、北条時宗についてその生涯を見てみました。
北条時宗とは
① 18歳で就任した鎌倉幕府第8代執権
② モンゴル帝国による二度の侵攻を退けた強気の為政者
③ 戦前までは日本を国難から救った英雄として崇敬の対象となった人物
でした。
その早い死によってやり残した事業も多い北条時宗。
しかし、2度の蒙古軍襲来を撃退したことは、その後の日本の歴史に大きく影響を与えた功績として評価されるべきことでしょう。
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