北条時宗が迎え撃つ元寇

 

北条時頼の息子である北条時宗

鎌倉幕府の第8代執権となった時宗は大きな国難に遭います。

それが外国から攻められる蒙古襲来(もうこしゅうらい)、または元寇(げんこう)と呼ばれる戦争です。

時宗はどのようにこの危機を乗り越えたのでしょうか?

 

元寇とは??

攻めて来たのは元という大国

13世紀の1271年に現在のモンゴルと中国の地域に新しい王朝による国ができました。

それが「元」です。

モンゴル帝国の第5代皇帝であるクビライ・ハンは国の名前を、大元(だいげん)と改めたのが始まりです。

ユーラシア大陸の半分を制覇したチンギス・ハンの帝国と同じく、元も南宋(今の中国南部)や高麗(今の朝鮮半島)に攻め込み自国の領土を広げます。

そんな大国と鎌倉時代の日本は向き合う事になるのです。

 

元からの使者

永文3年(1268年)より元からの使者が何度も日本を訪れます。

執権になっていた北条時宗はクビライからの国書(手紙)を受け取ります。

その手紙「 大蒙古国皇帝奉書(だいもうここくこうていほうしょ) 」には

モンゴルが大国であるのは世に知られている。

日本はよく考えてモンゴルと友好的になるべきだ。

要約するとこう書かれていました。

意味は服従を求める内容です。

時宗は返事をしませんでした。

戦うにはモンゴルは大国でした。

また異母兄弟である北条時輔や北条時教など同じ一族との争いがあり、時宗の権力が不安定だったのも理由としてあります。

しかし、時宗自身はモンゴルに対しての好感はあまり持っていませんでした。

それは、

時宗の近くに中国大陸から渡来した

禅の僧侶である無学祖元(むがくそげん)など南宋に関わる人からモンゴルの悪行を聞かされていたためです。

時宗にはモンゴルに対する警戒心がありました。

 

元軍襲来

時宗が返事をしなかったもののクビライは合計6回も使者を送ります。

時宗は返事をしないままでした。

一方で西国にも所領がある東国の御家人を、西国の防衛に向かわせ戦う準備を始めていました。

6度目の使者も日本から何の返事も貰えなかった為に、クビライは日本は服従しないと確信します。

文永11年(1274年)10月モンゴルから大元と名を変えた大国は日本へ攻め込みます。

文永の役(ぶんえいのえき)と呼ばれる戦いです。

時宗はこの日に備えて西国に所領を持たない御家人も

「異国警固番役」の役目を与えて、九州を守る戦力を強化していました。

博多に上陸した元軍に対して御家人達は奮戦します。

日本の御家人の激しい抵抗に元軍は撤退して、文永の役は日本の勝利に終わります。

元に勝利する

文永の役の後もクビライは更に2度も使者を送ります。

この時、時宗は使者を処刑しますす。

当時は使者を処刑する事は強い敵対姿勢の表し方です。

時宗は元との徹底抗戦を強く示したのです。

弘安4年(1281年)に元軍は再び日本を攻めます。

弘安の役と呼ばれるこの戦いで日本側は更に準備をしていました。

石を積み上げた陣地である防塁(ぼうるい)を博多の沿岸に作っていたのです。

元軍は博多に上陸できず日本の御家人達による反撃を受けて元軍は再び撤収します。

 

きょうのまとめ

元寇と言う国難を乗り越えた時宗。

果たして彼はどう戦う決意を固めたのでしょう?

鎖国はしてないものの積極的な外交をしていた訳では無い鎌倉時代。

無学元祖など渡来した人々から知ったモンゴルまたは元と言う国の脅威。

時宗はクビライの要求を無視してなるべく時間稼ぎをしていたように見えます。

その一方で九州を守る備えをしていていました。

文永の役まで成り行きを見守り、いざとなれば戦うと時宗は決めます。

時宗は限られた情報の中で小国の日本が出来る自立の選択をしたのです。

 










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