今でこそ家系図を見れば、源義朝は明確に源氏嫡流にあった人物だと理解されていますが、
当時の彼がそれを自覚していたかどうかはわかりません。
なぜなら、清和源氏、河内源氏としての正当性が主張されたのは頼朝の代になってからのことだったからです。
それよりも、義朝は自分の時代を生き抜くことに必死でした。
彼の頃から源氏同士が戦い、殺し合わなければならなかった修羅の時代が始まっていたのです。
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義朝の清和源氏、河内源氏の中での位置
清和源氏とは、第56代目となる清和天皇を系図のトップとして始まる家系の氏族です。
源義朝は、その流れを汲む子孫となります。
清和天皇が第一皇子に天皇の位を譲り、876年に新しく陽成天皇が誕生したとき、
天皇になれなかった第六皇子・貞純親王の息子・経基王が臣籍降下して「源姓」を名乗ります。
つまり、清和天皇の孫、経基王改め源経基が初代清和源氏となりました。
初期は朝廷や藤原氏に仕えていた源氏ですが、初代源氏・源経基から数えて3代目、4代目の源頼信・頼義父子は武勇に優れ、河内国(大阪)で力をつけてきました。
それが河内源氏の始まりです。
前九年の役、後三年の役で活躍した頼義の子である源義家は関東に勢力を広げました。
源義家は、その活躍ぶりと人物としての評価も高かったことから、のちに源氏のシンボルのようになった人ですが、源義朝は彼のひ孫にあたります。
義朝の殺し合う家族
軍事貴族たちが更なる武力を持ち、武力を武力で制圧するような時代に生きた義朝は、自分の家族の中にさえ意見を異なる者を持ち、争いました。
義朝の父母と兄弟たち
義朝の父は、源為義。
八幡太郎義家こと源義家の孫です。
母親は、白河院の近臣であった藤原忠清の娘です。
そして義朝は長男として誕生し、9人の弟たちがありました。
しかし、彼らの多くは保元の乱を境に亡くなっています。
その理由は、保元の乱で後白河天皇方として活躍した義朝に対して、弟たちは父親の為義と共に崇徳上皇方についたからです。
後白河天皇方が勝利した際に、義朝は自分の武功と引き替えに、敵対勢力の崇徳上皇側だった父親や兄弟たちの命乞いをしました。
しかし、それは聞き入れられず、結局自らの手によって彼らを処刑しなければなりませんでした。
実に、父親の為義や賴賢などの弟たちが義朝によって処刑されています。
義朝のそれ以外の弟たちには、1180年の以仁王の挙兵に伴って諸国の源氏に令旨を伝え歩き、平家打倒を決起させた源行家、
また、平家を京から追放したあと源義経軍に殺された木曽義仲(源義仲)の父親となる源義賢がいます。
義朝の妻子たち
義朝には熱田神宮の宮司の娘である由良御前という正室がいました。
また、何人かの側室もありました。
由良御前と義朝との間に生まれたのが源頼朝、希義です。
希義は、頼朝が挙兵したときに平家に討取られて殺害されています。
また、側室のうち近衛天皇の中宮である藤原呈子に仕えていたと言われる常盤御前との間にも子はありました。
それが、僧侶になった今若丸こと阿野全成と乙若丸こと義円、そして壇ノ浦の戦いで活躍した牛若丸こと源義経です。
義経は平家を滅亡させた後、頼朝に追い詰められ奥州で自刃しました。
のちに、叔父にあたる源義賢を殺した悪源太義平こと源義平は、義朝とその側室波多野義通の妹との間に生まれた子となります。
きょうのまとめ
義朝の時代は多くのことが武力で解決される時代となりつつありました。
源義朝に近い血縁の人物だけを取り上げても、源氏同士で戦い、殺し合っていた現実がおわかりいただけましたでしょうか。
簡単にまとめると
① 源義朝は清和源氏、河内源氏の一員で、八幡太郎義家のひ孫である
② 保元の乱のあと、義朝は敵対勢力についていた実の父親と兄弟たちの多くを自ら処刑した
③ 義朝の息子、源頼朝と源義経は異母兄弟であり、義経自刃の原因は頼朝である
家族の多くを殺すことが避けられなかった混沌の時代の武将・源義朝。
彼は自分の息子が鎌倉幕府の将軍になると予感していたでしょうか。
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