文武両道で知られた名将・源義家。
後三年の役で戦いを終え、通りがかった勿来の関で詠んだと呼ばれる和歌は、義家の風雅な一面を表わす歌です。
のちの源氏一族に神格化されていった八幡太郎義家は、強い武将でありながらもどこか教養を感じさせる人物です。
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源義家と和歌
1083年に起きた清原氏の内紛と言われる後三年の役を終結させた義家が、その戦いのあとに通った「勿来の関」で歌を詠みました。
「勿来」には「来るな」という意味があります。
勿来の歌
天皇が編纂を命じた勅撰和歌集の一つ、『千載和歌集』に収録された歌です。
吹く風を なこその関と 思へども 道もせに散る 山桜かな
(ここは勿来の関なのだから、その名前の通り風よ来るな。綺麗に咲く桜をそのままにして、吹いてくれるな。それでも風がしきりと吹いて、道がふさがるほどに沢山の山桜の花が散り敷いている)
「来る勿れ」と呼ばれる場所にも美しく咲く桜があり、戦を終えてそこを通りがかった武将・義家が見た風に吹かれて散り乱れ、道を埋め尽くすほどの桜の花片。
美しい情景が目に浮かぶ絵画的な歌ですね。
源義家は、戦えば強い男でしたが、自然のつくり出す情景に心を動かされる繊細な感性を持つ人物でもあったのです。
この歌には詞書き(歌の状況の説明)があり、「陸奧国に来たときに勿来の関で花が散る様子を詠んだ」となっています。
これを信じれば、勿来の関とは北国の陸奧国にあった場所。
「勿来=来るな」という意味があるのは、当時朝廷と一線を画していた蝦夷と呼ばれた豪族の侵入を防ぐポイントだったという背景によるものです。
勿来の関は謎の場所
「来るな」という変わった地名のせいか、この場所は平安時代から近代前までに120を超える歌に詠まれている場所です。
「なこその関」は和歌の歌枕とされる場所だったのです。
実は、今のところその明確な所在地は分かっていません。
考古学的な発掘調査を根拠とした所在地の特定もされていません。
場所としては福島県いわき市にあったと考えられていますが、それもこの義家やのちの他の文学作品に登場することによって推定されただけで、ほかにも候補となる場所はあるのです。
現在の福島県いわき市にある「なこその関」は、江戸時代にそう見立てて観光地化したものです。
<勿来関跡>
義家と安倍貞任の逸話
義家には風雅な逸話が他にもあります。
義家の優しさ
1051年から始まったという前九年の役の戦いでのことです。
義家の兵に敗れた敵将・安倍貞任が逃げようとすると、義家が矢をつがえながら
と呼びかけます。
すると貞任は馬を止めました。
そんな彼に義家は
「衣のたては ほころびにけり」
と歌の下の句を歌いかけるのです。
すると貞任はすぐさま
「年を経し 糸の乱れの 苦しさに」
と上の句を返しました。
「衣のたて」とは、「衣の縦糸」を表わし、同時に掛詞として「衣川の館」の意味があります。
衣川の館は安倍貞任の戦いの拠点だったのです。
そこでこの歌は
年を経し 糸の乱れの苦しさに 衣のたては ほころびにけり
(長い年月を経て糸の乱れがひどくなるように、長年にわたる作戦の乱れがひどいので衣の縦糸がほころびるように、衣川の館も崩れてしまった)
という意味になるのです。
すぐさま歌を返した貞任に感じ入った義家は敢えて彼を逃がしてやり、これは義家の優しさを讃える美談となりました。
平安時代から「武士の情け」は存在したということでしょうか。
尋常小学唱歌にもなった
なんだか平安時代の武将は、戦いの中でもとっても優雅。
止まった相手に襲いかからず、歌を歌いかける義家も義家ですが、呼び止められれば止まり、律儀に歌を返す貞任も貞任です。
あまり殺伐とした感じがありません。
もちろん、これは義家を讃えるために作られた話かもしれません。
しかし、このエピソードは長く残り、1912年に日本の尋常小学唱歌ともなりました。
題名は『八幡太郎』です。唱歌にまで歌われた八幡太郎義家の人気は全国的です。
日本人としてこう生きたい、そんな憧れや誇りが義家のエピソードには織り込まれているのです。
きょうのまとめ
今回は、武将としての戦歴とは別の源義家の一面を見てみました。
いかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると
① 義家は「勿来の関」の和歌に表われるような教養のある武将だった
② 平安時代の武将の義家にも武士の情けがあった
③ 多くの日本人が憧れ尊敬した源義家は唱歌にまでなった
のちの源氏一族、子孫たちが彼を讃え続けたのもわかる気がしますね。
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