白河天皇は、自ら天皇の座を退き上皇になり、やがて仏門に入って法皇となっても治天の君(事実上の君主)として積極的に政務を行いました。
そして、仏門に入ったというのに奔放だったのが女性関係。
白河法皇には平清盛や崇徳天皇の父親だった、という噂があるのです。
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寵愛した女性を臣下に与えた白河天皇
白河天皇には、
・藤原道子という女御(天皇の配偶者で中宮の次の位)
がありました。
白河天皇は賢子とは非常に仲睦まじく、中宮、女御以外には女官である典侍・藤原経子と関係があった程度。
賢子が28歳で亡くなってしまった後も、正式な后を入れませんでした。
しかし、代わりに近くで出仕する女性たちを、出身階級の低さにこだわらず公然と寵愛したのです。
その一人、祇園女御は、宮仕えの女房だった(異説あり)身分から、白河法皇のおかげで権勢を誇るほどになった女性です。
法皇はこのような女性たちを自分の臣下の者に与えたりもしたそうです。
さらに、白河法皇には男性の愛人もいました。
・平為俊
・藤原宗通(院の近臣として力を持った)
は白河法皇の寵愛を受けた臣下の者たちでした。
平清盛も崇徳天皇も白河法皇の子供?
『平家物語』や『源平盛衰記』にも公然の秘密とされた白河天皇の子供の噂について書かれています。
平清盛の場合
清盛の父親は平忠盛です。
忠盛は白河法皇を警護する役目である北面の武士で、法皇院の武力的側面をサポートしたキーパーソンです。
『平家物語』によれば、法皇の子を身ごもった祇園の女御が忠盛に与えられ、清盛が誕生したことになっています。
これが平清盛の落胤説ですが、明治時代に発見された史料により、清盛の母親は祇園の女御の妹だという有力な説も出てきました。
いずれにせよ、白河法皇が忠盛に与えた女性が既に妊娠しており、法皇が父親だという可能性はあるのです。
そう考えれば、
・平清盛が忠盛の正室の子供ではないにもかかわらず嫡男となったこと
が、白河法皇や祇園女御の権力を背景にしたものだと合点がいきます。
崇徳天皇(すとくてんのう)の場合
鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第一皇子は顕仁親王(のちの崇徳天皇)でした。
しかし、鳥羽天皇も周辺の人々も顕仁親王の本当の父親は白河法皇だと考えていました。
なぜなら顕仁親王の母である藤原璋子は、鳥羽天皇に嫁ぐ前から白河法皇の寵愛を受けていました。
それは鳥羽天皇に嫁いだ後も続いていたからです。
つまり、顕仁親王は不倫の子。
公的には白河法皇の孫であるはずが、実際には法皇の息子かもしれないのです。
法皇は周囲の目を一向に気にせず顕仁親王をかわいがりました。
さらには、鳥羽天皇を強引に退位させて上皇とし、まだ5歳の顕仁親王を即位させ、崇徳天皇にしたかと思うと、法皇は治天の君として院政を続けました。
白河法皇と崇徳天皇によってないがしろにされた鳥羽上皇は、1129年の白河法皇の崩御を契機に復讐を開始します。
白河法皇による奔放な行動は、噂を呼び親族を猜疑心で翻弄し、それが鳥羽上皇と崇徳天皇との対立となって、1156年の保元の乱の原因を作っていくことになったのでした。
きょうのまとめ
このように、白河天皇は平清盛と崇徳天皇の父親だった可能性があります。
簡単にまとめると
① 女性関係に奔放だった白河天皇は、中宮・賢子が亡くなったあとは出身階級にかかわらず多くの女性を寵愛し、彼女らを臣下に与えた
② 平清盛には白河天皇と祇園女御、もしくは祇園女御の妹の子であるという落胤説がある
③ 崇徳天皇は鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の子ではなく、白河天皇と璋子の不倫の子だという公然の噂があり、鳥羽天皇はそれを信じて崇徳天皇を嫌った
白河天皇は、院政を構築することに邁進しながら、寵愛する女性との関係によってその後の日本史を大きく動かす火種をも同時に作ってしまっていたのです。
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