“ライバル女王”エリザベス1世とメアリースチュアート

 

彼女は人をないがしろにし、道徳をふみにじった世紀の悪女なのでしょうか?

それとも、無実の罪を着せられ悲しい運命を背負わされた女王なのでしょうか?

イギリス史において評価がまったく割れてしまう女性がおります。

イングランド女王エリザベス1世のライバルの一人。

スコットランド女王メアリースチュアート

同じ女帝としてイギリスを生きぬいた二人の人生のからみあいとは?

 

生後6日での女王即位

メアリースチュアートは1542年、スコットランド王ジェームズ5世の娘として生まれました。

それからわずか6日後、父は熱病に亡くなってしまいます。

ジェームズ5世にはほかに子がおりません。

そのため、メアリースチュアートはスコットランド女王になるしかなくなります。

 

エリザベス1世とのライバル関係

スコットランドは今のイギリス、ブリテン島の北側に当たり独立しておりました。

イングランドとは時に仲良く、時に戦争をする、ような関係です。

ちょうどそんなころに現れた二人の女王、メアリースチュアートとエリザベス1世。

ともに、

●フランス語・スペイン語・イタリア語・ギリシャ語、ラテン語などたくさんの言語を習得できるほど才女としてとても評判でした

●エリザベス1世は狩りを、メアリースチュアートは乗馬を、といった風にスポーツにも長けておりました

●とっても美人です

年はエリザベス1世の方が9つ上です。

ちなみに、エリザベス1世はメアリースチュアートからの使者が訪れた時、こんな風にたくさん質問をして使者をこまらせております。

〇わたしの髪とメアリーの髪とどちらがお好き?

〇わたしとメアリーとどっちが美人?

〇どっちのダンスが上手?

〇どっちのイタリア語が上手?

〇どんな本を読むの?

さらに、

〇どっちが背が高い?

とたずね、使者が

「背はメアリー様の方が」

と答えると、

「それは高すぎね。私はほど良い高さなの」

 

メアリースチュアートの危機

メアリースチュアートはエリザベス1世によって勧められたロバート・ダドリーとの話を断り、ダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと結婚します。

ところが、このヘンリーというのがなかなかわがままな性格。

メアリースチュアートはすぐに嫌になってしまい、結婚生活は冷えこんでしまいます。

そんな時にメアリースチュアートと恋仲になったのが軍人のボスウェル伯

さらに折も折、ヘンリーの泊まっていた屋敷が爆発を起こし、ヘンリーは亡くなってしまいます。

メアリースチュアートとボスウェル伯はその3か月後に結婚。

世の中は「あんたらがやったんだろ」と、ものすごい疑いの目を向けております。

そして、人々は反乱。

メアリースチュアートは何とかイングランドへと逃げおおせました。

 

晩年のメアリースチュアート

エリザベス1世はそんなメアリースチュアートをイングランドに受け入れます。

が、メアリースチュアートは18年国内の各地を転々とさせられるばかり。

そうしている間に、なんとメアリースチュアートはエリザベス1世を追い落とす陰謀を画策

ついにはそれが表ざたとなり、死刑となってしまいました。

 

きょうのまとめ

メアリースチュアートの死後、彼女と同じカトリックのスペインが動き出し、イングランドとの間で有名なアルマダの海戦にまで発展してゆきます。

さらに、エリザベス1世の死後、イングランドとスコットランドの同君連合の王となったのがメアリースチュアートとヘンリーの一人息子ジェームズ6世です。

① エリザベス1世もメアリースチュアートも勉強・スポーツがとてもできて美人

② メアリー・スチュアートは夫殺しの疑いがかかり、イングランドに逃げ延びた

③ メアリー・スチュアートはエリザベス1世への陰謀が発覚し、処刑された

 
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