関東一円に力を持ち、関東で散った平将門は、死後も人々の間で忘れられることなく語り継がれてきました。
人々の将門への思いは、東京やその他の土地の神社となって現れています。
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結界の北斗七星を構成する7つの神社
平将門の首塚を含め、東京エリアには多くの将門にまつわる神社があります。
その中のある7つの神社を線で結ぶと、北斗七星の形をした結界になっているという話しを知っていますか?
その神社による結界が作られたのは、江戸幕府が開かれるときのこと。
天海という天台宗の大僧正が、幕府に相応しい場所を風水によって徳川家康にアドバイスしました。
これにより北斗七星を信仰していた将門の朝廷への怨みを封じ、そのパワーを守り神としての力に変えて江戸の繁栄を築いたと言われます。
ではその七つの星のように位置する東京の神社を紹介します。
神田明神
730年に創られた神社です。
元は将門塚(将門の首塚)にありましたが、江戸幕府により、表鬼門守護の目的で現在の場所に移されました。
一之宮の大己貴命つまり大黒様、二之宮の少彦名命こと恵比寿様と共に三之宮として平将門命が祀られています。
武士の先駆けとして民衆たちに慕われた将門。
しかし、明治政府~は天皇に刃向かった逆賊と見なされて一時は摂社(本社に付属する本社と末社との間に位置するもの)に遷されました。
そして1984年に再び本殿に祀られた経緯があります。
なお、神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけないといわれています。
その理由は、成田山新勝寺は将門の乱の鎮圧のための儀式を行った寺だからです。
後述する将門を祭神とする築土神社も同様です。
これらの神社を信仰する者の成田山への参詣は、道中に災いが起きるためタブーとされています。
(千代田区外神田2-16-2)
鎧神社
将門の鎧がこの地には眠っていると古来より言い伝えられています。
(新宿区北新宿3-16-18)
水稲荷神社(みずいなりじんじゃ)
この神社には平将門は祀られていません。
むしろ、将門を討伐した藤原秀郷が討伐の翌年に勧請した神社です。
北斗七星の1社に加えられたのは、あえて将門の怒りのパワーを増幅しようとしたのか、それとも将門の怨念を見張るためか、理由がわかっていません。
(新宿区西早稲田三丁目5-43)
筑土八幡神社(つくどまちまん)
特に将門を祀った神社ではありません。
しかし、江戸時代には将門信仰のあった築土神社(後述)と境内をシェアするようにぴったり横に並んで建っていました。
本来の北斗七星を構成していたのは、その後移転してしまった築土神社の可能性があります。
(新宿区筑土八幡町2-1)
将門首塚
怨みのために飛んで行った将門の首がここに着地したという伝説があります。
長らく将門の怨霊に苦しめられてきた住民たちのために、遊行中の時宗の僧・他阿が怨霊を鎮めたのが始まりです。
(千代田区大手町1丁目2番1号外)
兜神社
兜町の名前の由来となったこじんまりした神社です。
そこにある「兜岩」は、平将門を討った藤原秀郷が、供養のため兜を埋めて作った塚の名残りだとする伝承があります。
(中央区日本橋兜町1-12)
鳥越神社(とりこえじんじゃ)
将門の首がここを飛び越していったので「飛び越え→鳥越」という地名の由来があります。
(台東区鳥越2-4-1)
その他の東京エリアの神社
築土神社
将門の首が飛んだ話しは、怨念の強さを強調するための作り話で、本当はこの神社に平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)が安置されていたそうです。
将門信仰の象徴的神社でしたが、将門は「逆賊」だとの明治政府の見解により、神としての将門は格下げされました。
この神社は戦災で焼失しており、社宝だった将門の首を納めた首桶、将門の肖像画、木造の束帯坐像等は全てなくなり、一部の写真が残るのみです。
(千代田区九段北1-14-21)
稲荷鬼王神社
平将門の幼名が「外都鬼王」「鬼王丸」といったことから、名前を取ったという伝承があります。
(新宿区歌舞伎町2-17-5)
平将門にまつわる東京以外の寺社
東京以外にある将門関連の寺院と神社をご紹介します。
國王神社
平将門が落命した戦場に将門の三女・如蔵尼が庵を建てたのが始まりです。
将門の33回忌にあたって彼女が刻んだ「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)が御神体で、「国王大明神」の神号があります。
(茨城県坂東市岩井951)
御首神社(みくびじんじゃ)
京でさらし首となった将門の首が関東へむけて飛び立った時、美濃国の南宮神社の隼人神が首を射落とし、将門の首により再び乱が起きるのを止めました。
その落ちた場所が御首神社となったそうです。
(岐阜県大垣市荒尾街1283-1)
通光山浄誓寺(つうこうざんじょうせいじ)の将門の首塚
寺の境内奥にある五輪塔の位置に将門の愛馬が運んできた彼の首が埋められたという伝承があります。
(埼玉県幸手市神明内1469)
延命院
京に首が送られたあと、残された将門の遺体をひそかに葬ったのがここの胴塚です。
ここは、相馬御厨と呼ばれる神聖な土地だったために、誰に暴かれることなく、現在に至っているそうです。
(茨城県坂東市神田山715)
京都 神田明神
「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」との由緒書きが残されている洞です。
(京都市下京区新釜座町728 綾小路通西洞院東入る)
きょうのまとめ
今回は平将門にまつわる東京とそれ以外のエリアにある神社をご紹介いたしました。
簡単にまとめると
① 大僧正・天海によって選ばれた東京の7つの神社は北斗七星の形に配置され、江戸の城下町を護る結界の役割をしていた
② 将門にまつわる神社は日本各地に多く残っている
③ 関東の人々に神として祀られた将門だったが、明治政府に「逆賊」とみなされた不遇時代もあった
将門は千年を経た今になっても多くの人々に親しまれると同時に畏れられる存在なのです。
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