日本三大怨霊(*)の一人、平将門。
*崇徳天皇、菅原道真、平将門
現代にもその怨霊の威力は衰えず、将門の首塚がある場所には呪いがあるといわれています。
一方では将門の霊力にあやかったご利益やジンクスもあるとか。
さあ、気になる死後の将門のパワーについてご紹介しましょう。
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平将門の首塚
板東で平貞盛と藤原秀郷に討伐された将門の首級が平安京まで送られ、晒されました。
それなのに平将門の首塚は東京にあり、将門塚と呼ばれています。
伝承では、将門のさらし首は何日経っても腐ることもなく、夜な夜な「身体を返せ! また一つになって戦おう!」と叫び続け、ついに関東に向かって飛び去ったのです。
ところが、首は途中で力尽きて落ちてしまいます。
その落ちた場所については数カ所候補があり、それぞれが首塚として祀られていますが、その中でも最も有名なのが東京大手町にある将門塚です。
高層ビルが建ち並ぶオフィス街の真ん中に不自然なほどぽつんとあります。
将門塚:東京都千代田区大手町1−1
首塚にまつわる呪い
この将門塚にまつわる祟りとしていくつか知られたものを挙げてみましょう。
関係者14名死亡、庁舎に落雷の大蔵省
1923年の関東大震災によって当時の日本の大蔵省庁舎は壊滅しました。
その再建の時、首塚を壊して仮庁舎を建設するわずか2年の間に、不審な事象が次々と起きます。
大蔵大臣早速整爾を始めとする工事関係者、省職員など関係者14名もが亡くなり、多くの怪我人・病人が出たのです。
彼らは平将門など落ち武者に殺される夢にうなされて変死、もしくは事故死したと噂されています。
結局、仮庁舎は取り壊されました。
1927年4月に神田明神の宮司によって将門の供養が実施され、祟りは収まったと思われましたが、1940年6月に落雷が大蔵省を襲い、大火事となりました。
その落雷現場は首塚付近だったのです。
戦後のGHQ区画処理で死亡事故
第二次世界大戦後にGHQが丸の内周辺の区画整理を行っていました。
その時邪魔になった首塚を取り壊し始めると不審な事故が相次ぎ、重機が横転して運転手(日本人)が亡くなっています。
関係者がGHQに陳情に赴き、将門の墓であることを説明してようやく工事の中止となりました。
近隣のビルで働く人々への祟り
昭和の高度経済成長時代、大蔵省が売却した土地に日本長期信用銀行が建てられました。
すると、首塚に面した部屋の行員が次々に病気になる事態が発生。
神田明神の神官にお祓いをしてもらって収めましたが、最終的には長銀は破綻しています。
そのため、隣接するビルは首塚に背を向けないようにフロアレイアウトされ、従業員が首塚を見下ろすようなことのないよう窓を設けないなどの配慮がされいるという噂があります。
ご利益もある首塚?
平将門という強力な武人の祟りを恐れるだけではなく、その荒ぶる魂のパワーには、ご利益もあると考える人々もいます。
サラリーマンは蛙(カエル)のだ
将門の首が京都から関東に帰ってきたことから、左遷が決まったサラリーマン、海外駐在や出張に行く人も「必ず帰る」というご利益があるそうです。
首塚に蛙の置物をお供えすれば、無事に元の会社に戻ってこれるというジンクス。
実際に首塚の境内には沢山の蛙の置物が奉納されています。
「無事に帰って」の切実な願いも
サラリーマンだけではありません。
誘拐や行方不明になった人や子供が無事に帰るための願掛けもされています。
1986年11月に起きた三井物産マニラ支店長の若王子信行さんの誘拐事件のころから目立つようになったといいます。
きょうのまとめ
今回は、平将門の首塚の場所と呪いやご利益についてご紹介しました。
簡単にまとめると
① 平将門の首塚「将門塚」は、東京大手町のオフィス街の中にある
② 首塚にまつわる祟りの被害だとされる事件は本当にあった
③ 首塚には「元の場所に帰る」という願いを託す人々による蛙の置物が奉納されている
鎌倉時代以前の日本の中心は京でした。
日本といえば、西日本のことであり、東国は軽んじられていたのです。
そんな時に京に対抗して立ち上がった将門は、東国の希望の星でした。
将門がどれほど凄い、人智を越えた力を持った人物であることを後世に伝える手段として、彼のさまざまな呪力が伝説になったとは思いませんか?
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