「教皇は太陽であり、皇帝は月である」
これはローマ教皇インノケンティウス3世その人による発言です。
中世ヨーロッパはキリスト教の影響がとても強いです。
そんな中、国王や皇帝以上の権力を持ち始めたのがローマ教皇。
インノケンティウス3世の時代とはまさにその絶頂期です。
ヨーロッパ版「この世をば望月とぞ思ふ(藤原道長)」を堂々言い放った人生とその絶頂ぶりをしっかりと確かめましょう。
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インノケンティウス3世はどんな人
- 出身地:イタリアのガヴィニャーノ
- 生年月日:1161年
- 死亡年月日:1216年7月16日(55才)
- 第176代ローマ教皇。教皇の権力を史上最高におしあげる。
インノケンティウス3世の年表
1161年(0才)インノケンティウス3世生まれる
1190年(29才)インノケンティウス3世、枢機卿に選出される
1198年(37才)インノケンティウス3世、ローマ教皇に即位
1202~04年(41~43才)第4次十字軍
1209年(48才)オットー4世がローマに進軍する。同じころ、インノケンティウス3世、イギリスのジョン王を破門。
1214年(53才)ブーヴィーヌの戦い
1215年(54才)第4ラテラン公会議が開かれる
1216年(55才)インノケンティウス3世亡くなる
インノケンティウス3世の生い立ち
インノケンティウス3世はイタリアの裕福な伯爵家であるコンティ家に生まれました。
彼は、
●ボローニャ大学で法学
とヨーロッパがほこる名門に次々、入学・勉強します。
そして、その後はローマ教皇庁で大出世。
37才でついにローマ教皇になります。
インノケンティウス3世と破門
当時のローマ教皇の権力はものすごいです。
ヨーロッパ中の国王も皇帝ですらなかなか頭が上がりません。
そして、そのシンボルが「破門」。
ローマ教皇が「あなたをキリスト教徒として認めません」ということです。
「破門」されると、当時の人間としてはある意味「死」をも上回る大変な苦しみを味あわなければならなくなりました。
ローマ教皇に破門された有名な人たちはこちら。
●フランス王フィリップ2世
●第4次十字軍
その中でも一番苦労したのはこの人でしょう。
神聖ローマ皇帝オットー4世です。
インノケンティウス3世とオットー4世
オットー4世は神聖ローマ皇帝になりました。
しかし、ローマ教皇庁にとても反抗的。
なんと軍隊を連れてローマに押しかけます。
しかも、「もうあんたらの言うことは聞けねえよ」とおどします。
すると、インノケンティウス3世ぶちギレ!
「破門!」
オットー4世はだんだん政治的にも軍事的にも苦しくなり、とうとう失脚してしまいました。
死ぬ間際まで「“破門”を解いてください……」とお願いしておりました。
インノケンティウス3世による鉄槌(てっつい。鉄のハンマー)と許し
インノケンティウス3世はローマ・カトリック教会を守ることのためにはものすごくマジメです。
ただ、まじめすぎるのか、
●アルビジョア十字軍を立ち上げる、つまり「キリスト教内の異端をやっつけなきゃ」
となります。
ですが、当時ものすごく清貧な活動をして話題になっていたアッシジのフランチェスコが
「私たちの活動を認めてください」
とお願いしに来た時には「OK」を出すということもありました。
教皇は太陽
第4ラテラン公会議はインノケンティウス3世のハイライトです。
ヨーロッパ中から王やキリスト教のえらい人などを1500人以上呼び集めて、宗教会議をやります。
この時、どういういきさつでか知りませんが、インノケンティウス3世はこんな発言をしました。
その翌年インノケンティウス3世は亡くなります。
きょうのまとめ
「“免罪符”を乱発する」などという行為はない人でした。
そんなことを口に出しただけで「神に立てつく気か!」としかられそうです。
ただ、これを突き破りだすのがそういった常識にとらわれない人たちなんですね。
ヴェネツィア共和国やフリードリヒ2世やフィリップ4世。
やり方はそれぞれにまったくちがいます。
人間社会が幸せに続いていくためにはどうしたらいいんでしょう。
このテーマでアッシジのフランチェスコとインノケンティウス3世による本気のセッションってどうなるのか、見てみたい気がします。
もちろん政治力・軍事力いっさい無しで。
① インノケンティウス3世はたくさんの権力者たちにも「これはいけません」と思ったら容赦なく“破門”した
② インノケンティウス3世は「いいですよ」と思ったら心広く認めてあげた
③ インノケンティウス3世は「教皇は太陽であり、皇帝は月である」と確かに言った
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