あなたは北畠顕家という武将を知っていますか。
時代は南北朝時代。
足利尊氏や新田義貞、楠木正成は有名ですよね。
しかし、顕家はそんな彼らにも負けず劣らずのものすごい武功を次々に積み重ねます。
公家でありながら、十代でありながら。
そんな末恐ろしい大天才ぶりと、あまりに皮肉で悲しい結末。
そんなギャップこそが“花将軍”北畠顕家の魅力を引き立てます。
源義経が好きなら、項羽が好きなら、日本の南北朝は北畠顕家でしょう!
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北畠顕家はどんな人
- 出身地:京都?
- 生年月日:1318年4月3日
- 死亡年月日:1338年6月10日(享年20才)
- 南北朝時代の南朝方公家武将
北畠顕家の年表
1318年(0才)北畠顕家誕生
1321年(2才)叙爵
1333年(15才)鎌倉幕府滅亡。父・親房とともに東北地方に赴任。
1334年(16才)津軽における北条氏の残党を滅ぼす。従二位に任官。
1335年(17才)鎮守府将軍に任ぜられる
1336年(17才)上洛。足利尊氏を豊島河原で破る
1337年(19才)再上洛開始
1338年(20才)石津の戦いで敗死
超エリート!北畠顕家の生い立ち
北畠顕家は『神皇正統記』をあらわしたことで有名な、公家・北畠親房の長男です。
満2才で叙爵(貴族の位をもらうこと)、満12才までに従三位参議・左近衛大将に任官。
最年少記録です。
かつての全盛期藤原氏ですらだれもありません。
12才の時には後醍醐天皇の北山行幸におともし、後醍醐天皇の笛に合わせて雅楽「陵王」を舞いました。
この時の華やかな舞台の影響でしょう。
北畠顕家と言えば「超イケメン」というイメージが定着しました。
実は、史実根拠がないことはおさえておきましょう。
建武の新政崩壊
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の「建武の新政」が始まり、北畠顕家は父親親房とともに東北に入ります。
そして、顕家は翌年には津軽における北条氏の残党を討伐してしまいました。
この時16才。
17才にはまさに東北の要となるべく「鎮守府将軍」に任命されます。
後醍醐天皇のなみなみならぬ信頼ぶりが伝わってきますね。
しかし、まもなくして、足利尊氏が後醍醐天皇と抗争状態に。
あれだけ朝廷中心の政治の復活に意気揚々と燃えていた「建武の新政」に暗雲が立ち込めます。
みるみる京都にせまってくる足利尊氏の軍に後醍醐天皇はたまりかね、ついに顕家に出動命令が下ります。
北畠顕家「はんぱない」伝説の始まり
上洛発進!
ここからです。
ものすごいことが起こってしまいます。
北畠顕家は南下し、手始めとして鎌倉を落とします。
さらにそこから600km。
たった半月の大強行軍で近畿までやってきて、ついに足利尊氏の軍を破り、九州まで落ち延びさせてしまいました。
ボス足利尊氏筆頭に、大人の武家を手当たり次第に蹴散らしてしまうのです。
北畠顕家、あいつまじはんぱねえ。
2回目の上洛発進!
ですが、これで後醍醐天皇の政権は安定しません。
足利尊氏はまたすぐに勢力を立て直し、せまってきます。
しかし、その年の暮れには早くも後醍醐天皇から再救援を求める手紙が届きます。
これを受けて、北畠顕家は軍勢を集めて南下を開始。
関東にて反抗する諸豪族を破り、鎌倉をふたたび占領しました。
この時、顕家の勢いを見て、近くからたくさん「味方に」と集まってきます。
顕家は彼らと合流して、京を目指します。
ところが、あんまり味方がぶくれあがりすぎたのでしょうか。
それとも、二年続けての大遠征に、持ってくる食料がそもそも不足していたのでしょうか。
『太平記』によると、顕家の軍は略奪をしながら行軍。
その通り過ぎた後には草木も生えなかったと記されます。
青野原の戦い
これに対し、足利方は北畠顕家がいなくなったのをいいことに鎌倉を奪い返します。
そして、京にひかえる足利方本軍とのコンビネーションで北畠勢を挟み撃ちにすべく、西へと追いかけます。
顕家はこの動きを見て
「まず背後からせまる敵をたたこう」
と決意します。
岐阜県の青野原で、両軍は激突し、北畠方が勝利しました。
北畠顕家、伊勢に進む
しかし、北畠勢もこの戦いで消耗し、このまま京に攻め込むほどの余力はありません。
そこで、ここが歴史上の不思議とされているのですが、顕家は越前(今の福井県東北部)の新田義貞と合流する選択を取らず、伊勢(今の三重県の大部分)の方へと進むます。
ここの理由については正確な資料が見つかっていません。
新田義貞とのパートナーシップがうまくとれていなかったのか、それとも何かの作戦なのか、わかりません。
北畠顕家、近畿での戦い
その後、北畠顕家は大和(今の奈良県)を占領しますが、桃井直常の軍に大敗します。
何とか立て直し、転戦するも勝ったり負けたり。
やはり東北から付き従う精鋭の家来や馬が少なくなってくると厳しいのでしょうか。
それとも、連戦の苦しさか。
やはり、あの略奪というのが尾を引いているのでしょうか。
そして、顕家は後醍醐天皇に対して、こんな書状を送っております。
1. すぐに良い人を選んで、九州・東北にやってください。さらに山陽・北陸にも同じようにして反乱に備えてください。
2. 3年間租税を免除し、節約してください。土木工事とぜいたくをやめれば、反乱はおのずとなくなります。
3. 人の登用は慎重にしてください。功績があるのに身分が低い者には土地を与えるべきで、身分をあたえてはいけません。
4. 恩賞は公平にしてください。
5. 行幸(天皇の外出)や宴会はひかえめにしてください(お金がかかるから)。
6. 法令は厳しく実行してください。決めたことをすぐコロコロ変えるのはよくありません。
7. 政治に有害無益な者を近づけてはいけません。
「いくら敵をやっつけても、後醍醐天皇の政治自体がちゃんとしていないと、それに不満を持った敵がどんどん現れてしまいます。」
ということをついに素直に白状してしまっております。
ものすごい悲壮感すらただよいます。
北畠顕家の最期
その7日後、足利方の高師直が大軍を率いて攻めてくると、両軍は堺浦で激突。
しかし、敵は大勢であり、味方は度重なる戦いにつかれきっております。
しかも、足利方についた瀬戸内水軍からの攻撃もあり、味方の援軍も到着しません。
北畠勢はついに敗走。
石津で包囲され、顕家は決死の戦いに挑みますが、落馬し討ち取られました。
この時、わずか満20才。
あれだけ勝って勝って勝ちまくった大天才レジェンドでももうどうしようもないのです。
顕家の墓は大阪の阿倍野区北畠公園、堺の石津にあります。
東北地方福島県伊達市には彼にゆかりの深い霊山神社があります。
“花将軍”の息吹にふれたいのなら、足を運び、その体でふれ合ってみるのもいいでしょう。
<阿倍野区北畠公園>
きょうのまとめ
北畠顕家の最後にはどうしても鎌倉後の“略奪”が気にかかりますね。
ちょうど、中国の楚の項羽もものすごく戦いが強かったのに、大虐殺をおこなったりして、人がついてこなくなって、ほぼ自滅してしまいました。
顕家には少し気の毒かもしれません。
しかし、彼の人生そのものが今の私たちへの「気を付けなさい」という歴史のお手紙ではないでしょうか。
① 北畠顕家は幼いころからとんでもない大出世記録ホルダーだった
② 北畠顕家は10代で公家出身なのに、その武功がはんぱない
③ 北畠顕家は戦場でものすごく大活躍したが、肝心かなめの後醍醐天皇の政治がちゃんとしていなかったので、敵だらけの中ついに力つきた
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