本願寺中興の祖、蓮如はものすごく子だくさんでした。
その数は13男14女のあわせて27人です。
今回はそのあたりの事情と彼ら子孫と宗派の行く末を追ってゆきましょう。
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蓮如は子だくさん
蓮如の最初の奥さんは伊勢貞房という幕府とゆかり深い武士の娘です。
4男3女をもうけますが、彼女は蓮如40才の時に先立ってしまいます。
蓮如は彼女の妹を新たな奥さんにむかえます。
2男7女をもうけますが、彼女にも先立たれてしまいます。
その後さらに3人の奥さんをむかえることになります。
しかし誤解をしてはいけないのは、蓮如が1度に2人以上妻帯したということは一度もありません。
蓮如の子孫たちと教団の歴史
浄土真宗の教え
そもそも、蓮如の受け継ぐ本願寺教団は鎌倉時代、親鸞の開いた浄土真宗の一派です。
当然、蓮如は親鸞のことをとても尊敬し、その教えを広めよう、深めよう、と日夜研鑽、心を砕いております。
実は、その親鸞にも3人の奥さんと7人の子どもがいました。
この教団の僧侶は肉食も許されます。
動物を食べて、奥さんと子どもがいて、幸せになれないのであれば、よほど特別な人をのぞいてだれもなれないことになってしまいます。
- ふつうの人たち(仏僧などでない人たち)
- 罪があるとされていた人たち(猟師や漁師など生活上やむをえず仏法のタブーにふれなければならない人たちや犯罪人など)
にも“救いや真理の光を平等に当てなければいけない”
という使命があり、またそういったところを多くの信者たちが慕っております。
夫婦むつまじく、子だくさん。
これは「生きること」本来の肯定です(※)。
そして、その上に信者の本分があります。
蓮如ならではの心意気が込められているのでしょうか。
(※)ここは「信仰」の場であるより前に「歴史」の場です。私は極力“ありのまま”に伝え、実際にかみ砕くのはあなたです。
どれだけ子どもが多くても!
蓮如はこれだけたくさん子どもがいても間引いたりすることはありません。
ただ、さすがに生活が苦しいので方々に里子には出していたようです。
順如と実如
蓮如の長男順如は当然に蓮如の跡取りとして期待されました。
しかし当時、教団は仏教界の大勢力である比叡山延暦寺にとても警戒されておりまして、様々な圧力がありました(武力によるものまで)。
その一環として蓮如は強制的に引退させられ、順如も候補の座を外されてしまいます。
替わりに後を継いだのが次妻との一番上の男の子実如です。
このあたりから一門内での派閥争いが激しくなり、戦国のいろんな有力者との外交や戦争の話が多くなってきます。
顕如と織田信長
実如のひ孫が顕如です。
上洛を果たした織田信長にははじめ従っていたのです。
が、
「信者の動きの報告義務」
や
「各大名家との独断での話し合い禁止」
など、いろんなことを注文されるようになってきます。
畿内(今の京都南部・大阪・奈良・兵庫東南部あたり)の拠点で、戦略でも交通でもものすごく大事な
などと言いつけられる、だけではありません。
織田勢力圏は武力でもひたひたとせまってまいります。
当時織田方に敵対していた三好三人衆。
彼らは石山のほど近く、攻めにくい湿地上に立った野田・福島砦にこもり、抗戦しておりました。
そこへ、顕如率いる石山本願寺はついに三好側への加勢を表明します。
さらに
・朝倉
・武田
・足利将軍家
・比叡山延暦寺
など
諸勢力もこぞり、世にいう反織田信長連合の結成です。
顕如は畿内だけでなく、
・越前(福井県)
・伊勢長嶋(三重県桑名市)など
全国の信者たちにも「立ち上がれ」とよびかけます。
本願寺教団の分裂
本願寺勢は約10年にもおよぶ織田軍との血みどろの激闘の末、1580年に3度目の講和。
顕如は石山の地をついに退きますが、顕如の長男教如はこのやり方に反抗し、あくまで石山にこもり、織田勢に反抗し続けます。
結局その半年たらず後には織田勢に降伏。
ただここで顕如派と教如派の二派閥の対立がうきぼりとなってきます。
豊臣時代に入ると教如は秀吉によって強引に引退させられるものの、関ケ原の戦いに先んじて徳川家康に接近。
結局二派閥は真宗大谷派と浄土真宗本願寺派、2つに分かれて立つことになり、今にいたっております。
きょうのまとめ
① 蓮如には27人の子どもがいた
② 本願寺顕如は諸勢力と連合して織田信長に対抗した
③ 織田信長との講和をめぐって教団に亀裂が走り、江戸時代に入って分裂した
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