蘇我入鹿。
中大兄皇子と中臣鎌足に暗殺された飛鳥の権力者として有名です。
どうして蘇我入鹿は暗殺されたのでしょうか。
今回は蘇我入鹿暗殺事件「乙巳の変」をその背景を含めて説明します。
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蘇我入鹿が暗殺される背景
蘇我入鹿の横暴
当時、蘇我氏は天皇を凌ぐ権力を誇っていました。
・宮殿を見下ろす場所に館を構える
・自分達の子どもを皇子と呼ばせる
etc
権力を盾に蘇我入鹿は、横暴な振る舞いをするようになります。
ついに、蘇我入鹿は聖徳太子の一族である「山背大兄王殺害事件」を起こすと、
蘇我入鹿に対し皇族や他の豪族から不満が出るようになりました。
天皇中心の律令国家に邪魔な存在
特に蘇我氏への反感を抱いていた豪族、中臣鎌足は
同じく危機感を抱いていた中大兄皇子と手を結ぶようになりました。
中大兄皇子と中臣鎌足は唐(現在の中国)から帰国した留学生たちに学び、倭(現在の日本)を唐のような、律令に基づく天皇中心の中央集権国家にしたいと考えていました。
天皇中心の中央集権国家を目指すにあたり、天皇以上の権力を持つ蘇我入鹿は最大の障害でした。
そこで、中臣鎌足と中大兄皇子は蘇我入鹿の殺害を計画します。
蘇我倉山田石川麻呂を仲間に
中大兄皇子と中臣鎌足は入鹿暗殺に向けて、蘇我氏の内部分裂を利用することにしました。
蘇我氏の中で蘇我入鹿とその父親の蝦夷に次ぐ実力を持つ蘇我倉山田石川麻呂に目をつけます。
中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂の娘と婚姻関係を結び仲間にしました。
蘇我入鹿殺害を決行!
645年、入鹿の暗殺は三国の調の儀式の際に決行されることになりました。
三国の調の儀式とは、朝鮮半島の三国である百済、高句麗、新羅が、倭にたいして貢物をする儀式です。
天皇も出席します。
蘇我入鹿も出席することになっており、中大兄皇子たちは入鹿を暗殺する好機とみたのです。
当日は雨でした。
蘇我倉石川山田麻呂が上表文を読んでいる最中に暗殺者が蘇我入鹿に斬りかかる計画です。
上表文とは天皇に奉る文書をいいます。
蘇我倉石川山田麻呂が読み始めますが斬り込み役が怖気づいて、なかなか出てきません。
蘇我倉石川山田麻呂は恐ろしくなって声が震え出しました。
「なぜ、そんなに震えているのだ。」
と蘇我入鹿が不審に思って、蘇我倉石川山田麻呂に問いました。
「天皇の前なので、恐れ多くて緊張するのです。」
蘇我倉石川山田麻呂は答えます。
その時です。
怖気づいた斬り込み役に代わって
中大兄皇子が自ら、蘇我入鹿を斬りかかかりました。
「わたしが何をしたと言うのですか。」
蘇我入鹿が皇極天皇に訴えると、天皇は何があったのか、中大兄皇子に聞きました。
「蘇我入鹿は皇族を滅ぼして、自らが皇位を狙いました。」
と中大兄皇子が答えました。
それを聞いた天皇は宮殿に戻ってしまいました。
蘇我入鹿は息絶えます。
雨の中、蘇我入鹿の遺体は庭に投げ出され放置されました。
この蘇我入鹿暗殺事件を「乙巳の変」と呼びます。
翌日、父親の蘇我蝦夷が自害すると、蘇我宗家は滅亡することになります。
乙巳の変の後は?
律令国家を目指して大化の改新へ
乙巳の変の後は、皇極天皇が退位し、孝徳天皇が即位します。
そして、「改新の詔」が発布されました。
中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって、天皇中心の中央集権国家を目指して、改革を進めました。
この一連の改革を「大化の改新」と呼びます。
きょうのまとめ
蘇我入鹿暗殺事件、「乙巳の変」を紹介しました。
いかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると
① 蘇我入鹿は、天皇中心の中央集権国家への改革に邪魔な存在だった
② 中心人物は中大兄皇子と中臣鎌足
③ 内部分裂を利用しようと、蘇我倉山田石川麻呂を仲間にした
④ 天皇も出席する儀式の最中に、中大兄皇子によって斬り殺された
⑤ 乙巳の変の後は、大化の改新が進められた
と言えるのではないでしょうか。
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