「江戸からやってきた人斬り集団」のイメージが強い新選組。
その中で山﨑丞は、関西出身の温和で寡黙な男です。
刀だけではなく、監察という頭脳を使う役職の山﨑丞とは、
どんな人物だったのでしょうか。
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山﨑丞はどんな人?
- 出身地:摂津国(大阪)もしくは山城国(京都)
- 生年月日:1834年?
- 死亡年月日:1868年2月6日(享年35歳/生年1834年として)
- 新選組での役職:副長助勤、諸士調査役兼監察、小荷駄雑具方
- 剣の流派:香取流棒術
- 愛刀:和泉守国貞(いずみのかみくにさだ/井上真改)
- 墓:不明
- 関西出身の隊士で、優秀な探索エキスパート兼新選組の医師として活躍したが、鳥羽伏見の戦いで重傷を負い亡くなった
山﨑丞 年表
西暦(年齢)
1834年(1歳)
一説に壬生村在住の針医師の息子として生まれる
1864年(31歳)
新選組入隊後、探索方として情報収集に努める
尊攘過激派志士・古高俊太郎宅を突き止め、過激行動を阻止
1868年(35歳)
鳥羽伏見戦争で重傷を負い、死亡
山﨑丞の生涯
生年は諸説あり。
摂津国大坂もしくは山城国出身といわれている山﨑は、つまり関西の人間です。
江戸からやってきた沖田総司や永倉新八などの幹部隊士たちとはまたひと味違った形で新選組に貢献しました。
入隊、そして活躍
1863年末に新選組に入隊したころの彼は30歳過ぎ。
既に妻帯していたそうです。
医者、薬問屋、もしくは鍼医者の息子と言われています。
文武に優れ、土地勘もある上、大坂の金持ち商人の事情に詳しかったため、新選組の金策にも活躍しました。
1864年ごろから、隊士の動向調査や情報探索を任務とする新選組諸士調役兼監察に着任。
情報収集、探索能力に非常に優れた彼は、近藤勇や土方歳三などから厚く信頼されていました。
京にひしめく尊攘派たちの動向を探るだけでなく、新選組の内部にさえ眼を光らせるのも彼の仕事。
機密事項の漏洩や隊士の裏切り行為について人知れず調査しており、
隊の中には彼の存在を知らない者も多かったかもしれません。
彼の情報収集力によって新選組に大きく貢献したのが、
尊攘過激派の一人、古高俊太郎の発見です。
これが池田屋事件につながり、
新選組は尊攘派の御所焼き討ち・天皇長州連れ去りの計画を未然に防ぐ事に成功しました。
その後、
禁門の変や第一次長州征討、第二次長州征討
などの重要な戦いでも戦況の推移や状況報告に能力を発揮し、
近藤勇や会津藩に正確な情報をもたらしました。
山﨑の最期と水葬
ところが、1868年の鳥羽伏見の戦いの最中、
山﨑は重傷を負います。
1月13日江戸へ撤退するための富士山丸の船上で高熱により亡くなり、紀州沖で水葬されました。
その際、近藤勇は肩に重傷を負っていたにもかかわらず、
正装で葬儀に出席し、涙をこぼしながら追悼の言葉を述べたということです。
実は、山﨑の戦死場所については、生き残りの新選組隊士たちによって違った証言が残されています。
彼の戦没地やその葬儀など、本当のところは明確にはわかっていないのです。
享年35(生年1834年説の場合)。
山﨑丞にまつわるエピソード
山﨑丞の人物像
背が高く、色黒の美男。
あまり口を利かない人だったそうです。
香取流棒術の遣い手だということでしたが、文武両道の人物でした。
八木為三郎の談話としては、道場では長巻(大太刀から発展した刀剣の一種)を使い、よく斎藤一を相手に稽古していたそうです。
医家または薬問屋の息子だった山﨑は、京都で隊士の診療を行っていた松本良順より西洋の救急治療法を学びました。
彼の医師としての腕は松本良順にも認められており
「我は新選組の医師なり」
と言って周囲を笑わせたと松本良順の記録に残っています。
良順は、
とも書き残しています。
探索方と医師では職種が違いますが、
両方とも鋭い観察力と人に警戒されない穏やかな性質が要求される仕事。
山﨑はさらに、畿内地方でおきた民事的なトラブルを調停する一種の裁判官の仕事も担当していたそうです。
非常に優秀だった彼は、
新選組創設者ではありませんでしたが、副長助勤にまでなりました。
池田屋事件における山﨑の謎
山﨑が池田屋騒動で薬屋に変装して池田屋へ泊まり込み、
近藤たちの斬り込みのために中から手引きしたという話しは史実ではありません。
新選組が尊皇派志士たちの不穏な動きを掴んだのは池田屋事件当日。
新選組が部隊を分けて過激浪士たちの集会場所となりそうな料亭、旅館を虱潰しに当たった結果、
池田屋での集会を発見したのです。
つまり、山﨑が探索するヒマなどありませんでした。
彼が池田屋事件に貢献したと言われるのは、
その前の段階で島田魁と共に尊攘過激派の古高俊太郎宅・枡屋が宮部鼎蔵(みやべていぞう)ら大物志士の密会所だと突き止めたことです。
これにより新選組は尊攘派の御所焼き討ち・天皇長州連れ去り計画を知り、
その会合が行われていた池田屋に斬り込んで、過激行動を未然に防いだのです。
山﨑の池田屋騒動自体への関わりは謎です。
後日の報奨金授与のメンバーに、山﨑の名前はありません。
ただし、篠塚岸三という隊士が池田屋騒動前に新選組に入隊し、
騒動の一ヶ月後に除隊しています。
彼は池田屋騒動で褒賞金を授与されており、
もしかすると、「篠塚」とは偽名を使って活動することの多かった山﨑丞自身だったかもしれません。
隊士の永倉新八や島田魁の記録には篠塚ではなく山﨑の名前が残っているのです。
『取調日記』の発見
2005年の初めに公開された新選組史料として一挙に注目された資料があります。
それが、山﨑丞の『取調日記』です。
実際の内容は「取り調べ」というものではなく、
①京都、大坂近辺の探索関連記事
②部隊調練の号令
③新選組隊士名簿
④幕府役人その他の人名名簿
などが記録されています。
隊士名簿や、剣客集団として有名な新選組が剣に頼らず様式調練を行っていたなどの史料は興味深いものがあり、貴重な史料です。
「ヤマザキススム」を「山崎烝」と書く場合もありますが、
「取調日記」にある自筆の署名が「山﨑丞」だったので、
現在彼の名前を書く場合は、それに従う形になりつつあるようです。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
山﨑丞についていかがでしたでしょうか。
山﨑丞とは?
簡単にまとめると
① 長身・寡黙な美男子で、関西の医家の出身隊士
② 新選組の医師であり、非常に優秀なスパイのエキスパート
③ 近藤勇が信頼を置いた新選組隊士
と言えるのではないでしょうか。
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よろしければどうぞ御覧ください。
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