私たち人間は食べないと生きていけません。
だから「食」は
歴史の中でも大事なポイントとしてクローズアップされます。
文明と「コメ」、「小麦」、……。
「ジャガイモ」の記録的大不作が大量の移民を生み、
後のJ・F・ケネディ大統領やクリント・イーストウッド監督などのアイルランド系アメリカ人の流れを作ったこともあります。
イギリスにおいてはあのエドワード8世が「ショウガ」を国民に勧め、
ペストから多くの人命を守ったという話もあります。
日本の近世以降においては
甘藷(サツマイモのこと)
の存在を無視できません。
なにせ、天明以降の度重なる飢饉、
そして、あの太平洋戦争においても大変な役割を担ったのはよく知られているところ。
今回はそれを大々的に広めた
青木昆陽と
奇跡の救荒作物”甘藷”
の関係を紹介してまいりましょう。
あとちょっとだけイモ焼酎の話も。
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青木昆陽、儒学に篤(あつ)い人となり
青木昆陽は元々魚屋さんの一人息子といわれております。
思えば、この頃からすでに「食べ物」との深い縁が始まっていたのかもしれません。
しかし、幼い昆陽がものすごく好きだったのは「学問」。
それが高じて京へ行き、高名な儒学者伊藤東涯のもとで学びます。
やがて、江戸に帰ると、私塾を開きますが、そんなさなか、お父さんが亡くなってしまいます。
青木昆陽はこの時から3年もの間喪に服した(※)といいます。
すると、お母さんもあとを追うようにして亡くなり、また3年。
昆陽はこうしてあわせて6年もの間喪に服しました。
(※)昆陽はお寺参り以外の外出をひかえたり、おかゆなどの粗末なもの以外口にしなかった、といわれます。
あの名奉行の目に留まる
そんな時、ある人が引き立てに現れます。
江戸町奉行の与力(役人の一種)加藤枝直です。
この枝直という人は浪人から身を起こした苦労人です。
それでいて学問に造詣が深く、
江戸時代中期を代表する国学者あの”賀茂真淵”
を物心にわたって援助するほどです。
かねてより昆陽ともねんごろなお付き合いがあり、
枝直は昆陽の人がらと能力を認め、江戸の名執政官大岡忠相に推挙いたします。
そう、この人こそだれあろう、あの”大岡越前”ですね。
青木昆陽が甘藷を選んだわけ
こうして幕府に召し抱えられることになった昆陽はさっそくこんな大変なお仕事を言いつけられます。
「人々の飢饉を救うような作物を探せ」
当時、日本中に享保の大飢饉が深刻な猛威をふるっておりました。
飢えと寒さで1万~数十万人もの犠牲者が出たといわれております。
そこで、昆陽は読みあさった書物から甘藷の存在に着目し、幕府に訴え出ます。
甘藷は何せ
☆荒れた土地でも育つ
☆病気に負けない
☆栄養価が高い
☆長期保存が効く
しかも、
☆甘藷の栽培が普及していた九州地方では餓死者が少なかったのです。
徳川吉宗の幕府はこれにOKを出し、ついにその試作栽培が始まります。
青木昆陽の試作以外の普及策
昆陽は試作に成功!
その一方、
甘藷の栽培方法やレシピ、保存方法などをカナ書き交じりのわかりやすいものにまとめあげます。
その書物が「甘藷之記」
こうした普及活動の甲斐もあって甘藷栽培はやがて全国各地へと広がってゆくことになります。
きょうのまとめ
甘藷はその後の長い歴史の中で、救荒作物としてだけでなく、世のブームとしてもたびたび脚光を浴びます。
たとえば幕末。
当時は砂糖がまだ結構お高いですし、お手頃なおいしいスイーツとして人々の人気の的!
ものすごく物騒で、物価も安定しない大変な時期でしたが、
そんな人々の心と胃袋をなぐさめてくれたのでしょうか。
そういえば、最近ではドンドン品種改良が進んで
“蜜イモ”
や
“安納芋”
といったものが世の甘党をとりこにしているようです。
甘蜜ジュワジュワの濃厚クリーミーですからね。
「食べ物」と「歴史」の関係もお好みでよりひろいあげてみると、どんどんおもしろい事実が浮かび上がってきそうです。
① 青木昆陽は父母を亡くして6年もの間喪に服した
② 青木昆陽は幕府から飢饉対策の抜擢を受け、「甘藷」に注目した
③ 青木昆陽は甘藷の試作に成功するだけでなく、世に広めるために栽培・レシピ・保存方法などをまとめた書物を作った
そして、辛党様にもご一報!
今、福岡県朝倉にその名も
「青木昆陽」
というイモ焼酎が売り出されております。
もしよろしければ、かつての偉人の業績と思いをサカナにいっぱい!(お酒は20才になってから)
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