ナイチンゲール(Florence Nightingale)
とは、イギリス人の看護師で、医療改革に尽力した人物です。
クリミア戦争に看護師団を引き連れて赴き、戦場で心も体も傷ついた戦士たちを勇気づけ「戦場の天使」と称賛されたことでも知られています。
しかし本当の彼女の功績は、大変で不潔な看護師の仕事を改革し、その基礎を作ったことです。
ナイチンゲールとはどのような人物だったのでしょうか。
簡単にご紹介します。
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ナイチンゲールはどんな人?
- 出生地:イタリアフィレンツェ
- 生年月日:1820年5月12日
- 死亡年月日:1910年8月13日(享年90歳)
- イギリス人の看護師で、看護師の仕事の基礎を作り、医療制度や医療施設を改革した人物。「白衣の天使」
ナイチンゲールの年表
西暦(年齢)
1820年(1歳)両親の新婚旅行先だった、イタリアのフィレンツェで生まれる。(フィレンツェに因んで、フローレンスと命名される)
1837年(16歳)「神に仕えなさい」と神の声を聞く。
1851年(30歳)カイザルスベルト(ドイツ)の病院で看護訓練を受ける。
1853年(32歳)ロンドンで看護師として働き、病院の改革に協力する。
1854年(33歳)軍務大臣シドニー・ハーバードの要請により、クリミア戦争の軍事基地へ看護団団長として赴く。
1855年(34歳)クリミア半島の野戦病院に赴くも、クリミア熱にかかる。
1855年(35歳)イギリスで、ナイチンゲール基金が設立される。
1860年(40歳)セント・トーマス病院内にナイチンゲール看護学校が開校。
1907年(87歳)女性初のメリット勲章を授与される
1910年(90歳)ロンドンの自宅で永眠。
ナイチンゲールの幼少時代
裕福な暮らしと英才教育
ナイチンゲールは、両親の約3年間にわたる新婚旅行中に、イタリアのフレンツェで誕生しています。
彼女は幼いころから自分が決めたことは、やり遂げないと気がすまない子供でした。
裕福な家庭に育ち幼少期は家庭教師による英才教育を受けています。
12歳からは、語学だけでなく数学や歴史なども学び、多くの課目で優秀でした。
記録をよくとり合理的に仕事をすすめ、数学が得意だったことから統計など資料作りにも長けていました。
本が好きで広く深い知識があり、政治家や軍人にも自分の意見をしっかりいえる意志の強さなどの人間性は、子供のころに作られていたようです。
神の声を耳にするナイチンゲール
16歳のナイチンゲールは、家の建て替えの間にヨーロッパに家族旅行をすることになり、今まで見たこともない世界との出会いにときめいていました。
いつものように日記をつけていると、
「神に仕えなさい」
と突然神様の声が聞こえたのです。
ナイチンゲールは生涯のうちに4回神の声を聴いたとか。
自分とは違う世界に驚愕
二人の姉妹にとっては異国の景色を見るのは初めてで、特に、フランスの景色とイタリア観光でのオペラ鑑賞は気に入ったようです。
しかし、イタリアで目にした馬車の窓から見える、粗末で汚れた服を着て、何の感情もなく群れを成して歩く、
工場労働者夫婦や子供たちの姿は彼女の心を傷めました。
ナイチンゲールが選んだ道
神のお告げの意味
1842年に歴史に残る大飢饉が起こり、イギリスは失業者であふれました。
貧しい村で病気や飢えで苦しむ人たちへの奉仕をし続ける内に、
と24歳の時に悟ったのです。
これが、前に聞いた
「神に仕えなさい」
という神様の声の意味なのだということもナイチンゲールには分かっていました。
険しい看護師への道
ナイチンゲールは、看護師になるための専門知識や方法を学ぶすべを模索します。
当時、上流社会では女性は結婚をして家庭に入るのが一般的でした。
看護師は不潔でだらしない仕事とされており、家族中から猛反対にあいますが、持ち前の根性で独学を始めます。
結婚より看護師
ナイチンゲールは看護師の勉強をすべく、ドイツのカイザルスベルト学園へ行きたいと願っていました。
そんな時に、好意をもっていた富豪で国会議員のリチャードからプロポーズをされました。
彼と結婚すれば幸せになれることは分かっていましたが、プロポーズを断り看護師への道を選びました。
看護師になるナイチンゲール
ドイツのカイザルスベルトへ
姉パーシーの看病のためドイツに来ていたナイチンゲールは、規律正しい看護をしており、彼女の憧れだったカイザルスベルト学園に行けることになりました。
それは、カイザルスベルト学園へ行くことを母がやっと許可したからでした。
カイザルスベルト学園は、病院付属の看護教育の場で、その厳しさは有名でした。
昼間は病院で訓練を受け、夜は孤児院で眠り、粗末な食事で寝る暇もない、とても厳しい毎日でしたが、ここでの経験は看護師改革の基礎となったようです。
慈善病院の改革
3ヶ月ドイツで勉強した後、ロンドンの慈善病院を立て直す手伝いをしてほしいと依頼があり、看護の仕事への第一歩を踏み出しました。
彼女の功績は『ナースコール』と『お湯を各階に通すパイプ』を取り付けたこと。
ここでも、シーツ交換や食事出しなどに時間を使い、手が空くと患者さんの話を聞くという働き方をしました。
彼女の行動は、患者さんからも好評で誰からも一目置かれます。
戦場の天使となる
クリミア戦争勃発
そんな時に、1854年クリミア戦争が勃発します。
戦況は苦しく多くの兵士が怪我をするも、医師も看護師も道具など、全てが足りない状態でした。
戦場での活躍
イギリス政府からクリミア戦争に赴く看護師団40名の団長に任命されました。
クリミア半島に乗り込むも、「お嬢様のお遊び」と相手にされず、古いシーツや包帯を作りながら、看護に携わるチャンスを待つ日々が続きました。
負傷兵が増えチャンスが来ると、医師の手伝いから病室の掃除、洗濯、食事の世話など、仕事をてきぱきとこなしました。
また、負傷兵に接する優しい態度はまるで天使のようでした。
目を見張るほどの活躍ぶりに医師たちの信頼を得ることができ、負傷兵たちからは「戦場の天使」と呼ばれました。
残念なことにナイチンゲールは、クリミア熱に侵されスクタリに返されました。
クリミア戦争が終わるまでスクタリに留まり、最後の兵士が帰郷したのを見て彼女も帰りました。
英雄扱いされたナイチンゲール
負傷兵たちは母国へ戻り、ナイチンゲールの活躍ぶりを国民に伝えていました。
帰国するとナイチンゲールの、伝記やランプをもった人形が作られるほどの人気振り。
また、国民の寄付による、「ナイチンゲール基金」まで作られました。
これは、看護の大切さが認知された結果だったのです。
その後、ビクトリア女王から招待状が届きました。
冷静なナイチンゲールは女王との会見を、「陸軍病院の欠点の改善方法を提案する場」として利用しました。
女王の命により改善が行われた軍では、兵士の死亡率が激減しました。
看護学校の設立
1957年12月に、クリミア戦争での体験より書かれた『看護覚え書』が出版されました。
ロンドンはもちろんフランス語やドイツ語、イタリア語に翻訳され世界中の人に読まれました。(1912年日本でも紹介)
本が出版された半年後に、ウォードロウパ看護師長を校長に迎えた「ナイチンゲール看護学校」が開校。
看護の方法を教えるだけでなく、病院の管理や看護師の指導ができる看護師育成を目指した学校で、校長の目にかなった優秀な15名の生徒からスタートしました。
学校の設立や勉強のための費用や生活費など学校で必要な経費は、ナイチンゲール基金から捻出されました。
世論からの反発もありましたが、優秀な人材が看護師になるものだと世界中の人々に印象付けました。
晩年のナイチンゲール
40歳のころのナイチンゲールの体は、老人のように弱っていたようです。
現場で働くことはできませんでしたが、自らの経験を伝えることで医療に尽力しました。
80歳のころから目が見えなくなりベッドの上での暮らしが多くなるも、女性で初めて勲章を貰いました。
彼女の晩年は、見舞客がひっきりなしに訪れる、優しさに満ちたものでした。
1910年8月13日の昼頃に、永眠しました。
敵味方関係なく医療を施すという「赤十字社」を作った、スイス人のアンリ・デュナンは、
ナイチンゲールというお手本があったから赤十字社を作ることができた。彼女の精神と頑張は、勇気を与えてくれた」
と、ロンドンでの講演で語っています。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
ナイチンゲールについていかがでしたでしょうか。
ナイチンゲールとは?
① 幼いころから優秀で、強い意志の持ち主だった
② 厳しい教育がなされるドイツのカイザルスベルト学園で看護を学ぶ
③ ロンドンの慈善病院で病院改革の手助けをする
④ クリミア戦争で「戦場の天使」と呼ばれる活躍をする
⑤ 戦後は口伝てに活躍が広まり、国民による「ナイチンゲール基金」が作られる
⑥ ビクトリア女王に直訴し、陸軍病院を改革する
⑦ 『看護覚え書』を出版し、世界中で読まれる
⑧ ナイチンゲール看護学校を設立する
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