伊能忠敬とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

今から200年前、

家業である商いと、名主の重責をスッパリやめ、

55才から日本全国行脚し、

かなり基礎的な用具と、

わずかな人夫だけを元手に、

精巧な日本地図を作りあげた伊能忠敬いのうただたか

それだけで十分ものすごい事績なのは言うにおよばないことですが……?

伊能忠敬列伝

まいりましょう。

 

伊能忠敬はどんな人?

プロフィール
伊能忠敬

1995年発行の切手
出典:Wikipedia

  • 出身地:千葉県山武郡九十九里町
  • 生年月日:1745年2月11日
  • 死亡年月日:1818年5月17日(享年73才)
  • 江戸時代後期。極めて精巧な日本地図を作製。

伊能忠敬の年表

年表

1745年(0才)伊能忠敬生まれる

1762年(17才)伊能忠敬、伊能家のミチと結婚し婿入り、伊能の家督を継ぐ

1769年(24才)祭礼騒動が起こり、忠敬は村の名主後見としてうまく取りまとめる

1781年(36才)伊能忠敬、村の名主となる

1782~1788年東北地方を中心に天明の大飢饉が襲う

1891年(41才)家督を長男景敬に譲る

1795年(45才)伊能忠敬、天文学者高橋至時よしときに弟子入り

1800年(55才)伊能忠敬ら、蝦夷地に第一次測量を行う

1804年(59才)高橋至時亡くなる

1813年(68才)伊能景敬亡くなる

1816年(71才)伊能忠敬ら、江戸を中心とした第十次測量を行う

1818年(73才)伊能忠敬亡くなる

 

伊能忠敬、少し不思議な少年時代

伊能忠敬は名主の家に生まれます。

しかし、忠敬の父は家の婿養子であり、

家を継げず、

家を出ていくことになってしまいます。

忠敬は親戚や知り合いの元を転々。

ただ、算盤に明るく、

土地工事で人を差配する才を発揮したようで、

そこをみこまれ、

満17才にして造り酒屋の伊能家に婿入りし、

当主となりました。

 

若くして豪胆!伊能忠敬の村の顔役としての差配

伊能家は千葉県佐原の名門です。

すぐに村の顔役として抜擢されます。

すると、ある事件が起こります。

当時忠敬満25才。

恒例の

牛頭天皇のお祭りがありまして、

村では質素倹約の達しを出していました。

しかし、

みんな言うことを聞いてくれません。

好きなように派手な山車を出し、

しかも、

山車の回しは

うちが一番だ!

うちが一番だ!

と言い張りあっています。

さあ、差配役の忠敬、

ここで大胆な行動に出ます。

なんと、

「これじゃ顔役として申し訳が立たないから」

もう一人の顔役永沢家と義絶(肉親・君臣の縁を切ること。)する、

と言い出したのです。

みんなこれには慌てました。

そんなことされたら、村が持たない。

と、

とたんに忠敬の言うことを聞くようになりました。

 

実業家としても、村の政治家としても

忠敬は商機に非常に敏であり、

一方で何事にも厳格。

倹約などを徹底し、

傾きかけていた家業をたてなおすどころか、

現在価値

約35億円をも稼ぎ出したといわれます。

また、一方で村の名主も継ぎ、

利根川の氾濫や、

天明の大飢饉など、

次々と村におそいくる危機を解決していきました。

東日本を中心に深刻な猛威をふるったあの天明の大飢饉にいたっては

村民たちのために身銭を切るなどして

村内の餓死者はなんと「0」です。

 

伊能忠敬、40代にして華麗な転身!

政治家として実業家として天下一品!

しかし、忠敬はそれで満足するということはありませんでした。

満41才にして家督を長男に譲り、

満45才にして自分より19才も年下の天文学者高橋至時に弟子入り、

そして、

満55才にしてあの大事業へと挑んでゆくのです。

 

その遥かなる旅程にて天命をまっとうする

忠敬の日本地図作成へのいたるみちのりはとてもそんな平坦なものではございません。

ごく基礎的な道具と、

わずかな人足。

そして、その足を頼りにただ歩き、歩き続けました。

途中、

忠敬自身が病気になることもありました。

測量先の役人といざこざになることもありました。

師匠の高橋至時や家業を継いでいた長男に先立たれることもありました。

あまりに妥協のない性格から

嫁に行った長女や、測量を手伝っていた次男に勘当を申し渡したこともあります。

みなさん、

17年の年月です。

行く先々で

見ず知らずの自然を相手にし、

たくさんの人々の中で暮らします。

その間おいていた家業や村のこともあります。

そして、踏破した距離は地球一周分の4万km!

彼は体調悪化の末、その旅先で息を引き取りました。

満73才。

そして、彼の死後、

完成した日本地図は孫忠誨ただのりの手で江戸城へと上程されました。

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きょうのまとめ

こうして幾多の艱難辛苦の末出来上がった日本地図は現在最新の衛星地図と比べてもほぼ狂いのない、極めて精巧なものと知られております。

確かに忠敬は並外れて優秀な人材であったのは言うまでもございませんが、

彼の苦難に挑んだ魂についてはわたしのような凡夫をも揺すぶります。

① 伊能忠敬は若いうちから算盤や人の差配に明るかった

② 伊能忠敬は40代にして家業などから足を洗い、天文学を志した

③ 伊能忠敬は度重なる艱難辛苦の末に日本地図を作製した

それにみなさん、

彼の為した事業は彼だけでなしたのじゃあございませんよ。

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