岩崎弥太郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

三菱財閥の創始者として有名な

岩崎弥太郎いわさきやたろう

彼が巨万の富を築いたことは、なんとなくイメージできますよね。

ですが岩崎弥太郎とはどんな人物だったのか、詳しくご存じでない方も多いはず。

そこで今回は、岩崎弥太郎の生涯とエピソードについて、簡単にご紹介していきます。

 

岩崎弥太郎はどんな人?

プロフィール
岩崎弥太郎

出典:Wikipedia

  • 出身地:土佐国安芸郡(現在の高知県安芸市)
  • 生年月日:1835年1月9日
  • 死亡年月日:1885年2月7日(享年51歳)
  • 土佐の貧しい家に生まれるも学問にはげみ、藩内で出世。後に三菱財閥を作った実業家。

 

岩崎弥太郎 年表

年表

西暦(年齢)

1835年(1歳)土佐藩の地下浪人・岩崎彌次郎の長男として生まれる。

1854年(20歳)江戸へ遊学する。

1858年(24歳)吉田東洋の塾に入る。

1867年(33歳)開成館長崎出張所の主任となる。

1869年(35歳)開成館大阪出張所へ異動する。

1871年(37歳)九十九商会の経営を引き受ける。

1872年(38歳)九十九商会を三川商会に改称する。

1873年(39歳)三川商会を三菱商会に改称する。

1877年(43歳)西南戦争の軍事輸送を行う。

1885年(51歳)胃がんのため亡くなる。

 

地下浪人から大出世した実業家・岩崎弥太郎

三菱財閥の創設者・岩崎弥太郎は、土佐藩(現在の高知県)の地下じげ浪人の子として誕生しました。

地下浪人とは土佐藩特有の身分で、武士としては最低ランクです。

そのため幼い頃の岩崎弥太郎は、とにかく貧しい暮らしをしていました。

江戸への遊学

ですが二十歳の時、奥宮慥斎おくのみやぞうさいという人物のお供として、

江戸へ遊学するというチャンスを得ます。

弥太郎の家は貧しかったものの、学問をする環境には恵まれていたのです。

江戸へ出た弥太郎は、見山塾という安積艮斎あさかごんさいという学者の私塾に入って非常に熱心に勉強していました。

しかし江戸での生活も一年余りを過ぎた頃、母から父親の彌次郎やじろうが重傷を負ったとの知らせが届きます。

それを受け、弥太郎は故郷の土佐へと帰国することになりました。

この時、父・彌次郎が巻き込まれたトラブルについては、後ほど詳しく紹介しますね。

土佐藩の役人となる

その後、弥太郎は吉田東洋とうようという土佐藩士の私塾・少林塾に学びます。

この時、東洋に目をかけられ、弥太郎は土佐藩の役人となりました。

やがて東洋の甥である後藤象二郎しょうじろうが、藩の要職に就きます。

そして岩崎弥太郎は、開成館長崎商会という土佐藩の商組織の主任に任じられました。

そこで弥太郎は、グラバー(薩長に武器を売っていたイギリス人商人。長崎に今もあるグラバー園は、彼の旧宅)など外国人商人との取引などを経験をします。

坂本龍馬率いる海援隊の経理を担当していたのも、この頃です。

また明治に入ったばかりの頃、岩崎弥太郎は開成館大阪出張所の責任者も務めています。

三菱を創業

その頃、土佐藩士たちは時代の変化を読み、明治新政府が藩の事業を禁止する前に私的な商社を作って、今までの藩の事業を引き継がせようと考えます。

そして、九十九つくも商会という海運会社を設立しました。

やがて弥太郎は、その九十九商会を監督する立場となりました。

明治四年(1871)に廃藩置県が行われると、岩崎弥太郎もそれまで就いていた藩での地位を失います。

そこで弥太郎は、九十九商会の経営を引き受けることに。

この九十九商会はその後「三川商会」に改称し、さらに「三菱商会」へと名を変えました。

海運王となった岩崎弥太郎

三菱商会のトップとなった岩崎弥太郎は、ライバルとの熾烈しれつな競争の末、

海運業界での地位を確立していきます。

特に西南戦争下では政府側の軍事輸送を引き受け、三菱の財政基盤を強くすることに成功しました。

このときに得た利益によって、三菱は他の事業に投資を行い、一大産業資本を形成していくのです。

ですが海運の王者となった三菱を、おもしろく思わない人たちもいました。

詳しくは下記のエピソードで書きますが、いわゆるアンチ三菱の勢力との戦いを強いられることになります。

そんな中、岩崎弥太郎は胃がんによってこの世を去りました。

 

岩崎弥太郎にまつわるエピソード

投獄中に算術を学ぶ

若かりし頃の岩崎弥太郎は、実は投獄されたことがありました。

そのきっかけとなったのが、上記で少し触れましたが、江戸遊学を切り上げる原因となった父でした。

弥太郎の父・彌次郎は酒の席で庄屋とケンカをし、ボコボコにされて帰って来たそうです。

そして終いには、彌次郎は投獄されてしまいました。

知らせを受け、江戸から帰国した弥太郎は、奉行所に父の冤罪えんざいを訴えます。

ですが聞き入れてもらえず、奉行所の壁に批判する言葉を書いたのです。

そのため、弥太郎までもが捕まってしまいました。

ただし、獄中でも同房だった商人から算術や商法などを教えてもらい、

その後のキャリアに役立てたのですから、岩崎弥太郎はただでは転ばない男ですね。

vs渋沢栄一

上記で少し触れた、アンチ三菱。

中でも「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一しぶさわえいいちは、

三菱が海運業界を牛耳っていることに危機感を覚えたのだとか。

そこで渋沢は政府に働きかけ、三井財閥を中心として「共同運輸会社」を設立。

ここに三菱対共同運輸という、激しい競争が始まったのです。

両社はダンピング(安すぎる値段で商品などを提供すること)競争という泥沼にはまり、このままでは共倒れしてしまうというところまで行きました。

そこで両社は合併することになり、「日本郵船」が生まれました。

日本郵船が発足したのは、岩崎弥太郎が亡くなった後のことです。

関連記事 >>>> 「お金持ちになりたい人必見!岩崎弥太郎の名言4選」

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

岩崎弥太郎について簡単にまとめましたが、いかがでしたでしょうか。

岩崎弥太郎とは?

① 貧しい家に生まれたが熱心に学問にはげみ、土佐藩でも出世した

② 三菱財閥を作り、海運業界の王となった

③ 成功しすぎたため、快く思わない人も多かった

こちらのサイトでは、岩崎弥太郎や幕末・明治にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね!

 

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